第10話

文字数 1,828文字


 (シュイ)(ユィン)は桃原に生まれた。
 両親はともに「佳」の国の人で、父・徐英は、十七年(あまり)まえに「陶」の沿海侵出に対して結成された〝合従(がっしょう)軍〟(――この時には「昌」「佳」「王淑」が軍を出している)の陣中で明璇(ミンシォン)の父・簡公孫學文の知己を得、簡氏の用人として桃原に迎えられることになったのだという。母親は桃原の簡氏の(やしき)に入ったが、云を生むとすぐに死んでしまった。
 以後、除云は父とともに簡氏の邸に住まい、二歳となったときに簡氏に明璇が生まれるとその〝遊び相手〟に指名され、共に育つこととなる。
 簡氏の邸に数多(あまた)いる家従用人のうちでも、〝小云〟こと除云は、自他ともに認める明璇の一番のお気に入りとなった。
 その徐云が簡氏の邸を出て、章弦君の食客、(ガオ)偉瀚(ウェイハン)の門下となったのは、たしかに〝亡涼の人〟(ホー)(ジェ)と同様、王淑での立身を望んでのことではあったが、何もそれは自らの栄達だけを望んでいるわけではなかった。それは半ば以上、明璇を思えばこその決断だった。
 どういうことか。……それは簡公孫學文を襲った奇禍(きか)にある。

 北方の強国「原」は、数次にわたって北への征旅を繰り返した結果、終に異民族を北辺の地から一掃することに成功したのだったが、その後も精兵三万七千余を解散せずに手許に置いた。
 「原」の南進を危懼(きく)する「塙」「津」および畿内諸国は連衡(れんこう)の軍を起こすと、白河北岸より六十里を緩衝地とすべく、営原の地に兵馬を進めて十八城の割譲を求めた。
 これに「原」も一歩も退かず、両軍は営原に一触即発の事態となる。
 この時点での開戦を望まぬ「王淑」の宮廷は、事態を収拾し調停の会盟を成すための使者を「原」の国都「紺壁」に使わすこととした。白羽の矢が立ったのが簡公孫學文である。
 簡學文は腹心の臣たる徐英を従え「紺壁」に入ると、粘り強い交渉の末、終に両軍を退かせ調停を成した。
 その手腕に軍を解くこととなった原伯・戈正は、営原での会盟の後に変心し、簡學文と徐英の帰国を許さなかった。つまり人質としたのである。

 それが四年前のことであった。
 以来、明璇は母とふたり、広い簡氏の邸の中で多くの家従用人にかしづかれ、ずっと父の帰還を待っている。いつ帰還が許されるか、それは誰にも判らない。
 徐云もまた、父が「紺壁」に囚われている、という身上は同じである。彼女の心細さは推して測るまでもなく共有していた。
 だからだろう…――。
小云(シャオユィン)、わたくしが男なら、きっと学問をして縦横家となるわ。そして『紺壁』に赴き、言葉を尽くしてお父さまと徐英を救い出してみせる」
 ある日に、明璇自身が〝そんなことはできやしないこと〟と悟りながら言ったその言葉が、徐云を決心させた。
 誰も簡公孫と父を救わぬのであれば、せめて自分が、明璇のために「原」の都「紺壁」に赴き、弁舌を(もっ)て彼らを救い出すのだ、と。

 そうして徐云は簡氏の邸を出て、(ガオ)偉瀚(ウェイハン)の門を叩いた。


 このような自身の生い立ちについて、徐云はすべてを明かしはしない。ただ境丘で学んでいる事実と、何れ官途に就くという望み、そこのところを告げるに留めた。
 だから徐云と明璇の繋がりについてこの場で承知をしたのは、当の明璇と、あとは南宮(ナンゴン)(タン)だけであった。
 南宮唐は二十年来の友である徐云の師・高偉瀚から()()()()のことを伝え知っており、またふたりの会話を耳にすれば、(おの)ずと交わされた言葉の端々(はしばし)から、少女の素性も早々に当たりが付いていたはずである。
 さて、その南宮唐は徐云を向いて、
「……阿除(アシュイ)。今日のおまえの所為(しょい)にはまこと感銘を受けた。『十論』残り七篇、持っていかせる故、このあと一緒にうちに来い」
 と、(とく)に筆を走らせる手を止めることなくそう言った。
 あるいは徐云と明璇の関係に()()()()()の意識がいかぬよう、気を回したのかも知れない。
「あの……それはどういう」
 徐云が怪訝な表情(かお)を向けたとき、南宮唐はちょうど筆を置いた。
他人(ひと)の学問にけちを付けるということは、それは即ち他人の心を侵すということだ……」 明璇が小さく反応した横で、何捷はじっと徐云を見ている。
「墨者は他人(ひと)を侵すことを否定する。
 さらに、おまえは先ず〝小明(シャオミン)〟を背で庇い、()えて士人を打ち据えようとはしなかった。これは非攻といえるだろう。
 書に学び頭で理解が出来たつもりとなっていても、なかなか実践はできないもんだ。うん、偉いぞ」
 南宮唐は、そんなふうに不得要領(ふとくようりょう)なことを言って、あとは笑うのだった。
 徐云は、困ったように返すしかなかった。
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