第21話
文字数 1,820文字
「なんだなんだ――」
夕餉の客で込み始めた菜香房で、抑えていてもよく通る洪大慶の声が徐云と何捷の耳を打った。
「――それではおまえたち、名高い『青翠院』の〝翠雅雯の部屋〟にまで上がって、結局、酒の一献も傾けることなく退散してきたというのか」
信じられぬものを見るような目で大慶が、慌てて顔を伏せたふたりの顔を覗き込む。〝それは如何にも残念なこと〟ではないかと言わんばかりに。
その大慶の声を聞き付けた周囲の幾人かの目線が、名にし負う〝美妾〟の部屋に上がること許されたという男の顔を見てやろうと、好奇の視線を向けてくる。そして、それがまだ冠礼前の若造であることを見て、皆一様に〝二度見〟する。
――う、鬱陶しい……。
徐云も何捷も、このときの心境は同じだった。
できればこの場から姿を晦ますか、さもなくば洪大慶を消し去りたい……。
「大慶よ……大概鬱陶しいぞ、おぬし」
大慶の隣でひとり酒の杯を傾けているのは蕭尊寶である。〝なんという一大事〟という表情の大慶に冷やかな目線を投げかけつつ言う。もうそこそこの量を口にしているはずだが、いっこうに涼し気な表情だった。
「だいたい誰しもがおぬしや王孫航のような〝見境なし〟の女好きではないのだぞ」
そんな尊寶の言に大慶の向かいで面を伏している徐云と何捷は、「そうだそうだ」と胸の中だけで唱和している。
「しかし尊寶、あの青翠院の〝翠雅雯の部屋〟だぞ――」
大慶の未練たらたらといった辞を断ち切ったのは、店が使う娘のひとりだった。
「――おまちどおさまです」
常には快活な声で店の中を駆け回る燕のような娘が、しをらしく羹の器をならべ始めたとき、大慶は、はっと口を引き結んだ。
「お・ま・ち・どお、さま」
その大慶の前に器を置くときにいま一度口を開いた娘の声音は、表向き艶を含んでいて、それでいて険のある、いっそ冴え冴えとしたものだった。その態度はぞんざいでよそよそしい。大慶は弾かれたように立ち上がった。
「やっ……ちがっ」
そんな大慶にくるり踵を返した娘は、卓から離れると間抜けな兵法者を振り見やって、べー、と〝あかんべえ〟して店の奥へと消えた。
「…………」
尊寶は黙って杯に酒を注ぎ、徐云と何捷は羹の器をとった。
このような場合、傍目にも情けない羽目におちいった同席者に誰も同情しないのは、古今東西の〝世の倣い〟である。
そうして腹を満たしたあとの徐云と何捷は、いつものように、卓の上に酒の甕を置いた年長の学徒ふたりが天下国家を語るのを聞く。熱を帯び声の大きくなった大慶の弁に、周囲の同輩学徒が割って入ってくる、というのは菜香房では見慣れた光景だった。
尊寶は、友の熱弁に愉し気に酒の杯を呷っている。興が乗ってくれば侃侃諤諤の学徒らを向こうに回して自説を語り始めるだろう。偶に大慶は、何捷や徐云にも〝お鉢〟を回してくることがあるから気は抜けない。
……そんなとき、何捷は臆することなく自分の考えを述べた。徐云はと言えば、次々と湧いて出てくる疑問を何とか呈するのが常だった。
店内の熱気は冷めやらず其処此処で議論百出の態となっていたが、何捷がこちらを向いて立ち上がったので、徐云も席を立った。
「…――なんだ、おまえたち、もう行くか」
隣の卓の男と議論の応酬となっていた大慶が、大きな上体をひねり、すっかり赤くなった顔で向いた。見掛けによらず彼は酒に強い方ではない。
「はい。明日もやることが山積してますから」
そう応えた徐云の顔もそこそこ赤った。その隣の何捷の顔はもう真っ赤だ。それでも何捷はしっかりとした所作で揖の礼をしたので、徐云も揖をして辞することにする。
年長者への礼を終えると何捷は店の小娘の方を向いた。小娘は頷くと、店の奥から麻の袋を持ってくる。
「立青へか」 大慶が訊いた。
「はい……あ、いえ、」
面倒そうな表情の何捷に代わって応えたのは、小娘に銭を手渡す徐云だった。
「――立青の妹たちに。いつもお腹を空かせてるそうなので、何か腹の足しになるようなものでもと」
南宮唐の邸で家僮をしている立青は食うことには困っていなかったが、近郊で農奴をしている親兄弟姉妹たちは常に腹を空かせているという。
それを聞いた何捷は、今日のように菜香房へ来た折にはこうして土産を立青に持ち帰るようになり、徐云もまた、そんな何捷に倣って土産の払いを負担していた。
大慶は聞き終わるより先に懐から銭入れを引っ張り出していた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)