第69話

文字数 1,791文字


 この数日で、籠城する兵らの意気はいよいよ阻喪していた。
 すでに十月の半ば…――。
 白河を吹き渡る風は()()みと寒い。すでに枯れた葦がうら寂しい音を奏で、時折り、水鳥が何に驚いたのかしゃがれた声を立てる。南は白河の水を引き込んだ堀の先に居並んだ赤旗の昌の陣列。東には黒旗を掲げる原の陣列が並び、その遥か先を流れる白河の河面と冬の大地に、色彩は乏しかった。
 南から折れて流れる白河を上ってゆけば、洛邑、桃原へと到る。つい一つきほど前まで、これら姚姓の都の華やかさの中にあったことが嘘のようなうら寂しさが、彼らの心胸を萎えさせていた。
 そんな寂寥のなか夕餉(ゆうげ)の椀を差し出す若者に、(イャォ)(ファ)は見覚えがあるように感じて問うた。
「そなた、たしか境丘から馳せ参じた――」
 まだ加冠に達していないのか、その頭上に(さく)(=頭巾)を乗せただけの若者は、姚華が言い終えるより早く低頭すると、意を決して面を上げた。
 その顔は、疲労に目を落ち(くぼ)ませてはいたが、姚華の言葉に頬が上気していた。
「――…戦には不慣れであろうに、よくぞ駆けつけてくれた。礼を申すぞ」
「過分なお言葉、恐縮至極にございます。五人の儕輩(せいはい)(同じなかま)も、さぞかし喜びます」
 澄んだ双眸(そうぼう)()()と向けられ、姚華はわずかに狼狽(ろうばい)した。
「五人、とな……。それではそなたの仲間は、まだ全員がこの城内にいるのか」
 衛府の士ですら、櫛の歯の欠ける如くに城を去っている。一度はわざわざ宮城から駆けつけてきた官らも、夜が明けるたびに少しずつ姿を消してゆく。それを我が右腕と(たの)(リァン)国宇(グォユー)は、敢えて止めようとしない。
 正直なところ、姚華は、洛邑の緒戦からこの方、下官・学徒らのことなど、ほとんど失念していた。だがそんな中にあって、桃原の境丘から参じてきた六人はいまだ自分を信じ、この沮に留まっているという。
 志はあっても、所詮は筆硯のみを相手にしてきた彼らである。いざ戦となればおそらく足手まといになるに違いない。この期に及んでもなお自分に従う加冠すら終えていない若者に、姚華は突然にうしろめたさを覚えた。
「そなた……そなた、名はなんという」
「はい。(トン)(ヂォン)と申します。姒姓にござります」
 誇らし気に自らの出生の姓を口にした騰政の若い顔を見るや、境丘門道に連なる学堂の佇まいがまざまざと脳裏に思い起こされた。最後に学舎を訪れたのは、いったい何時だったか、……ふと思った。
 いや、それを言うならば、最後に賢人と(ことば)を交わしたのはいつだったであろう……。
 栄耀(えいよう)栄華を誇り、人臣の身で極められる最高位に上り詰めた自分がいま、冬の訪れを告げる白河の風に(さら)され、湯気の引いた(あつもの)を啜っている。気の利いた詩篇の一節でも引き、この惨めさを喩えようとしても、何の言葉も浮かんでこない。
 あれほど懸命に学鑚したことは、いったい何だったのであろう。〝百家の争鳴〟に身を置いた日々は、どこに行ってしまったのだろう……。姚華は、ひっ、と息を呑んだ。
「いかがなさいました、太師」
「い……いや、なんでもない。もうよい、下がれ」
「ですが、お顔の色が優れませぬ」
「わしに構うな! さっさと下がれ」
 激しく袖を振って騰政を追い払うと、姚華は冑を投げ打ち、両手で髪を掻きむしって呻吟(しんぎん)した。
 適当な文が浮かばないのも道理だ。思えばもう何年もの間、書籍に手を触れていない。かつて毎日のように読みふけった群書は、今ごろ洛邑の邸の片隅で埃を被っていることだろう。
(わしは――わしは、いま、何をしておるのか……)
 若かりし日、自分はたしかに古の五帝の仁政に胸を躍らせ、荒れ(すさ)ぶ朝堂を平らかにせんと誓ったはずであった。
 しかし、いま振り返ればどうか。治世の理念を忘れ果て、天子を操り、国を(ただ)すという美名の下で権勢を欲しいままとしていたではないか。挙句、王に弓引き、朝廷を二分する争いを起こした。そしていま、北辺に(のぞ)む河畔の孤城に籠っている。
 自分と(イャォ)(ファン)(昌公)――いや、昌公を背後から操っていた(ツァィ)才俊(ツァィヂィン)――のどちらが正しいかはどうでもよい。民を疲弊させ、国土を荒廃させる戦乱こそが、君子の最も()むべき行為(おこない)だったはずだ。
 そのような大事すら失念していた自分に、姚華は今更ながら愕然とした。
 然るに、なぜあの若者はこんな自分を慕い北の果てにまで(したが)ってきたのか。若者の直向(ひたむ)きな眼差しの心像が、身体に刺さった針のように姚華を責め(さいな)んだ。
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