第54話
文字数 1,626文字
さて、そういう事態の洛邑から離れた桃原の徐 云 である。
今月の遣いを終えて桃原を発 つにあたり、高 邸で偉瀚 との師弟の語らいを済ませて帰ってきた彼は、南宮 唐 の邸の西廂房 に麗雯 の姿を見て狼狽し、同時に心を躍らせていた。
麗雯はなんと旅装だった。
「あたし、洛邑に行くことになったの。だから徐 云 、あなたといっしょに行くわ」
屈託のない笑みでそう言うと、麗雯は手にした牘 を徐云に手渡す。それは彼女の敬愛する女主・翠 雅雯 からのものだった。
それによると、現在 は洛邑に居るという何 捷 から麗雯の出自を明かされたこと、彼女を太夫の後裔 として養育してくれる者を何捷が洛邑に見つけていること、そして麗雯自身が上洛を望んだこと、ついては徐云に洛邑までの同道を願うのでくれぐれも良しなに、など、そういうことが丁寧に記されていた。
この筆致では、彼女と自分との関係も承知しているかも知れない……。
「何 子 がね、洛邑に呼んでくれたのよ。旧主に恩を返したいって…――」
麗雯は、弾んだ声でしゃべり続けた。
「あたしが何 子 に、なにをしてやったというわけでもないのにね」
徐云はというと、曖昧に笑って返しはしたものの、その実は、何捷の消息を知り、彼が麗雯の出自を他者である翠雅雯に明かしたうえで便宜を乞うた事実に驚くばかりである。
まさかあ い つ が洛邑にいるなんて……。
麗雯の養育先を見つけて、しかも翠雅雯の信頼も得ているようだ。いったいこの一年余りを、彼はどう生きたのだろう。
何捷の出奔の経緯 や、その際に生じた気詰まりといったものを知らない麗雯は、そんな徐云の微妙な表情に何かを感じ取ったようだったが、とくに何を質すこともなく続けた。
「もうこのまま船に乗るのかしら? あたしの方は、準備はもういいのだけれど、徐 云 はどうなの?」
あっけらかんとした声音になって、徐云を下から覗き込んで訊く。
「――…ね、徐 云 。洛邑ってどんなところ? いろいろと教えてよね」
つんと形のいい鼻梁と、野性味を帯びた切れ長の眼は、洛邑の都大路を歩く娘にもそうはない媚を湛えている。
「あ、うん。そんなに掛からないよ。荷造りはもうしてあるから」
麗雯の、まだ見ぬ洛邑への憧憬を隠しきれないその様子に、徐云は吊られるようにぎこちない表情の頬を緩めると、廂房の自室へと足を向けた。
ほどなく、旅装をまとめ、南宮 唐 の留守の間の邸を預かる火車 に、高 偉瀚 からの指示を伝えた徐云は、麗雯と共に南宮邸を後にした。
そしてふたりは、その日のうちに桃原の船着き場から、白河に出た。
白河に出れば洛邑までは水行で三日乃至 四日である。
「広いわねえ」
麗雯は手をかざし、目を細めて感嘆の声を上げた。
徐云は〝格好のいい姿〟を披瀝 したい思いから、そんな麗雯の隣に立って言ってみた。
「……白河の神は河伯 と云うんだ。璧 を捧げて祈れば、必ず願いを叶えてくれるというよ」
「そうなんだ?」
麗雯の目が輝いた。
「璧でなければだめなのかしら」
璧は大型の円形をした玉である。宝石の中では至宝といってよい。いま、麗雯の胸には崔 の家伝の璧があるが、まさしく他の何物にも代えがたいものであった。
「いや、珠 でも玉 でも…――自分にとって大切なものを、白河の神に捧げればいいのさ」
「そうなの」
麗雯は少し思案顔になって、なら、と髪に手を遣って簪 をぬくと――そういうことは笄礼 した女性 のすることではないが…――それを手にして祈りはじめた。
それが自分が買ってやったものだと見てとり、徐云はくすぐったい想いをしつつも言い添えた。
「ほんとうに願いを叶えてもらいたかったら、河に投げ込むんだ」
麗雯は片目を開き、
「やっぱり投げ込まなきゃ、だめ?」
と、なさけなさそうに徐云を見て、しかし、息を吸って、思い切ったように河面へ投じた。
え⁉ ああっ、となさけない表情 となったのは、結局、徐云ということになったわけだったが、なにを祈ったのか訊いても、ついに麗雯は教えてくれはしなかった。
今月の遣いを終えて桃原を
麗雯はなんと旅装だった。
「あたし、洛邑に行くことになったの。だから
屈託のない笑みでそう言うと、麗雯は手にした
それによると、
この筆致では、彼女と自分との関係も承知しているかも知れない……。
「
麗雯は、弾んだ声でしゃべり続けた。
「あたしが
徐云はというと、曖昧に笑って返しはしたものの、その実は、何捷の消息を知り、彼が麗雯の出自を他者である翠雅雯に明かしたうえで便宜を乞うた事実に驚くばかりである。
まさか
麗雯の養育先を見つけて、しかも翠雅雯の信頼も得ているようだ。いったいこの一年余りを、彼はどう生きたのだろう。
何捷の出奔の
「もうこのまま船に乗るのかしら? あたしの方は、準備はもういいのだけれど、
あっけらかんとした声音になって、徐云を下から覗き込んで訊く。
「――…ね、
つんと形のいい鼻梁と、野性味を帯びた切れ長の眼は、洛邑の都大路を歩く娘にもそうはない媚を湛えている。
「あ、うん。そんなに掛からないよ。荷造りはもうしてあるから」
麗雯の、まだ見ぬ洛邑への憧憬を隠しきれないその様子に、徐云は吊られるようにぎこちない表情の頬を緩めると、廂房の自室へと足を向けた。
ほどなく、旅装をまとめ、
そしてふたりは、その日のうちに桃原の船着き場から、白河に出た。
白河に出れば洛邑までは水行で三日
「広いわねえ」
麗雯は手をかざし、目を細めて感嘆の声を上げた。
徐云は〝格好のいい姿〟を
「……白河の神は
「そうなんだ?」
麗雯の目が輝いた。
「璧でなければだめなのかしら」
璧は大型の円形をした玉である。宝石の中では至宝といってよい。いま、麗雯の胸には
「いや、
「そうなの」
麗雯は少し思案顔になって、なら、と髪に手を遣って
それが自分が買ってやったものだと見てとり、徐云はくすぐったい想いをしつつも言い添えた。
「ほんとうに願いを叶えてもらいたかったら、河に投げ込むんだ」
麗雯は片目を開き、
「やっぱり投げ込まなきゃ、だめ?」
と、なさけなさそうに徐云を見て、しかし、息を吸って、思い切ったように河面へ投じた。
え⁉ ああっ、となさけない