第77話
文字数 1,909文字
徐云は、鼓の音で遠のきつつあった意識を引き戻した。
――ああ、もう都城の郭門が開くのか……。
白河から吹く凍てついた東風に、首をすくめるように全身の筋肉をひとときに縮める。それから白い息を吐き出しながら力を抜いていくと、ようやく頭がすっきりとしてきた。
徐云は立ち上がると、厚手の袍を軽く叩いて埃を落とし、頭上の幘(頭巾)と襟を直す。
もう、すぐに、ここの主人が現れるはずだ。
何捷が鄭氏の枝店にひとりで姿を現わし、廖振瑞が王淑への問責の使者に決まったことを告げてきたのは、呂原の邸での会席から五日と経ってはいなかった。
上首尾に破願しその詳細を訊ねた徐云に、何捷はそこから先は火車を介して蕭尊寶に伝えるとして、廖特使の旅程についてはいっさい語らなかった。
何捷と尊寶とを繋いだ火車もまた、徐云には何も明かしてはくれず、
「ここはあっしに任せ、あなたさまはおとなしくしていなせえ。人にはそれぞれの務めってのがありますのさ」
そう言ったきり、火車は姿を消したのだった。
どうも火車も何捷も、尊寶さえも、ここから先は、この件から自分を遠ざける心算であるらしい。その配慮はありがたいことではあったが〝いらぬ気遣い〟である。いまさらそのようなことをされても、ひとり蚊帳の外に置かれたようで、とうてい納得できるものではなかった。
これで、
――せめて、この顛末は見届ける。
徐云は、そう心に期した。
だが、蕭子が〝いつ〟〝どこで〟ことを起こすのか、使者としての廖振瑞の旅程が判らぬ以上、見当が付かない。
それでも徐云は、蕭尊寶がことを起こすだろう場所を、都城から亀城までのどこかと見当を付けた。一か八か、洛邑から桃原までを水行すると張ったのだ。桃原までの水行なればその起点は亀城に絞られる。もちろん、陸路を行かれてしまえばどうしようもなくなるが、そのときは諦めるしかない。
そう割りきった徐云は、洛邑から亀城に入る西門を見張ることにした。
特使が西門を潜るのは、おそらく郭門が閉ざされる日入から翌日の払暁にかけてであろう。特使であれば、民が外出を禁じられている、夜中に門を潜ることが出来るはずだから。
そういうわけで徐云は、亀城の西郭門の門道に面した小さな酒肆(=安酒場)の主人に話を付け、日の入りから翌日の黎明(=夜明け)までの夜半の間、肆の片隅に身を置いて門の動きを追っている。……すでに三日が経つ。
果たして、鼓の音が止んでいくらも経たぬうちに小柄な主人が姿を現わすと徐云は、つと目礼をして肆を出た。すでに人出で賑わい始めている門道を西に――洛邑の方へと足を向けた。
四分三刻(=一時間半)ほどを歩いて、洛中の鄭氏の枝店の部屋に戻ってきた徐云を、張暉が待っていた。
「あ、除子……戻りましたね」
傍らに湯気の立つ羹の椀と酒の瓶を置いているところを見るに、徐云の戻る頃合いを見計らって、用意をしていたらしい。この年少の同僚は、こういうところに如才がない。
途端に、徐云の腹が鳴った。張暉は、部屋の主人が客をもてなすように徐云を招いて、羹の椀を差し出してくる。睡魔と疲れよりも、寒さと空腹とが勝った徐云は、屈託なく笑う張暉の差し出す椀を受け取った。
それから食事を取って身体を温めながら、ふたりは情報を交換し合った。
乱から二カ月と経っていない洛中は、相変わらず不穏な気配を潜ませていたが、これまでのところ、表立ってこれといった動きはない。今日のところも同様であった。
徐云は腹を満たし身体が温まると、まとまった睡眠を取るため部屋の片隅の牀(寝台)の上に横たわった。
陽射しが傾いだ頃、翌日の夜半の監視のため店の房前(軒先)を出しなの徐云を、息せき切って駆けつけた張暉が呼び止めた。
「――…除子、今宵は市中の見回りの数が増強されるようです。お気を付けあれ」
「それはいったいどういうことかな?」
いつもと然して変わらぬ調子の張暉が声を顰めて云うには、章弦公主の離宮に上がっている侍女――この半年で顔見知りとなっていた――が、今宵の逢瀬を約束を反故にされたとお冠で、終始つっけんどんだったという。
そのお相手というのが宮城にあって小臣(大僕の指揮のもと、王や貴人を警護する武官)の地位にある若者で、今宵、急の召集が掛かった彼は、宮城の外、洛中街衢の警護に駆り出されることとなって、彼の女との逢瀬は果たせなくなった、ということである。
小臣は、本来、内宮の警護を担当する。城外街衢は衛士・警吏の任となる。
その〝小臣の君〟に、今宵、役外の召集が掛かったとなれば…――。
話を終え、もう笑みの消えている張暉に、徐云は静かに肯いて返した。
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