第51話

文字数 1,934文字

 久しぶりに会った(シャオ)尊寶(スンバォ)の切迫した雰囲気に飲まれ、(ヂャン)(フゥイ)表情(かお)を引き締めて訊いた。
「都督畿内三かん……ええっと、なんですって?」
「都督畿内三監四関諸兵事だ。畿内と三監( )(※)、それに函谷関・大散関・蕭関・武関の関中四塞の兵事を司る新たな職務だ」
(※恵王朝の滅亡後、逢の武王は自身の弟らを恵の故地に封じ、その遺民を監視させた。これを三監と呼ぶ)
 張暉の背中を、それまでと異なる寒気が(はし)った。
「待ってください。いまさら、なぜそのような新官が設けられるのです」
「わからぬか。これによって太師は、()()()()()()()、東は白河の西岸から西海までの常備兵を掌握なさる――」

 軍を発出することを出師(すいし)という。
 軍は戦や大規模な暴動・叛乱の鎮圧などに際して都度に動員が行われるもので、この時代に強力な常備軍は存在しない。それでも各地の警護・警邏に必要な最小限の兵は養われているのだが、これらはそれぞれに所掌する官に属し、一つとなった軍令に服するものではなかった。
 それがここにきて、太師ひとりの差配の下に置かれることになった。個々の兵力は小さい。それでもまとまれば大きなものとなるが、そこに『出師』という〝手続き〟はない。

 尊寶の(こわ)い顔が続ける。
「しかも先ほど天官府では太師の命を受け、諸国試兵の法に(なら)って邑ごとに一両( )(=二十五人)の兵を招集し、洛邑で射儀を催す旨の官符を起草した」
「それはつまり――」
「合わせて千の精兵が( )(十日間)を経ぬ間に上洛してくる。いや、おそらく一邑一両とは表向き。実際には数を水増しした官符が諸邑に送られるはずだ」
 張暉はめまいを覚えた。仰ぎ見た空の青さが、くらりと揺れた気がした。
「……それでは、太師は、ほんとうに挙兵なさるのですね」
 しぼり出した声は、自分のものとは思えぬほどかすれていた。
 この時期にそれほどの兵力を洛邑に集める意味がわからぬ張暉ではない。膨らみ切った緊張が、いま(まさ)に弾けようとしているのだ。
「そうだ。間違いない。それもこれから一旬か二( )(十日から二十日)のうちにだ」
 尊寶の声は常と変わらぬ冷静さだが、肩口を掴んだままの指には、関節が白く浮き出るほどに力が入っていた。
「されど太傅とて、諸国から兵が集うのを黙って眺めておられようはずがない。すぐに手を打つ。よいか、これは間違いなく大乱となるぞ」
 普段から血の気の薄い尊寶の顔色が、さらに蒼く、澄んですら見える。
 彼は天官府内で官符の作成に立ち会い、これらの陰謀を察知したのだろう。そして今まさに昌公の邸でも、誰かがこの計画を太傅の耳に入れているかもしれない。
 宮城の片隅から始まった小さな波が、恐ろしい勢いで王畿の諸侯・卿・士大夫の足元に迫ってきている。やがてこの波は洛邑を揺るがし、この国を動乱の只中へと飲み込む津波へ変貌するだろう。
 目に見えぬ大波の音を、張暉は確かに聞いた気がした。
「どうして太師が、かような愚を犯されるのです! 太師が兵を集めれば、太傅も力で抗されるのは必定でしょうに!」
 張暉には、このようなことを避けるためにこそ、境丘学派の尊寶と(リャオ)振瑞(ヂェンルイ)のふたりが、あえて天官の(ツァィ)宰輔の下についていたはずだとの想いがある。それがこのような首尾…――、そのことを責める気持ちが、素直に口を吐いて出てしまった。
 尊寶の方は、云われずとも、痛恨の極みであったろう。
 彼は険しい表情(かお)のまま、ゆっくりと肯いた。
「返す返すも己が不明を恥じるばかりだ、赦せ。あえて申さば、太師は増大しつつある太傅……いや、その背後におられる主上の影に苛立った挙句、沈着さを失われたのやに思われる。だが、かようあからさまな権勢欲をのぞかせるなど、およそ為政の者にあってはならぬ失態……」
 よいか、と尊寶は一語一語を区切るように、はっきりと言った。
「――急ぎ、南宮(ナンゴン)(タン)を介し、境丘の(ガオ)老師(ラオシー)にこの(こと)を伝えよ。いまや、太師の念頭におありなのは、主上への憎しみのみと見える。人は憎悪には憎悪をもって報いるものだ。かような反逆を起こされ、おとなしくしておられる主上ではあるまい。戦となり、万が一にも太師の側が敗れれば、主上や太傅は、章弦君や境丘の一門にも敵意を抱かれよう。よいか、時勢(じせい)(かんが)み、学派の処し方を考えていただくのだ」
 それだけ言い残すと、尊寶は身を翻して駆け去った。
 残された張暉は、しばらくの間、呆然とその場に立ち(すく)んでいた。しかしすぐに我に返ると、門外に出て外馬丁の顔を探した。
 急いた気のままに手綱を握り、懸命に洛邑の邸に向かって馬を走らせる。

 南宮唐と住まう仮初(かりそめ)の邸までの馬上――
 降り注ぐ秋の陽は変わらぬ長閑(のどか)さであったが、頬を撫でる風にはいまや寒気すら感じる。
 少年は、ただひたすら手綱を操るばかりだった。
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