第14話
文字数 1,557文字
洪大慶の言葉に肯いたちょうどそのとき、蕭尊寶は、中庭の南側――垂花門(中門)の方に人の気配が生じたように感じ、そちらに視線を向けふたりの少年と立青が連れ立って門をくぐるのを見た。
家僮のいなくなった南宮唐の邸では誰が出迎えるということはない。客は各々勝手に中庭まで入ってくるのだが、それで不用心ということはなかった。
じつは用心棒のようなものが居ついている。いま倒坐房(邸の南側の建屋)の窓辺で手許の作業を止め、それとない視線を向けている人物がそれである。
男は名を火車といい、曰くつきである。
この男、ひと気のなくなった南宮邸に押し入った、もとは夜盗という男なのだった。
ある夜に火車は、名にし負う章弦君の食客の邸とはさぞや豪勢なものだろうと、南宮唐の邸に忍び入ってみた。が、押し入ってみればそこには、そこそこの広さの邸に貧相な学者がひとり寝ているばかり。調度といえばおびただしい数の冊簡が積まれた棚くらいであった。
落胆を通り越して呆れるばかりとなった火車の目の前で身を起こした南宮唐は、招いた覚えのない来訪者と目が合うやいなや「腹は減ってないか」と訊いてきた。戸惑う火車に南宮唐は「なに、食い物と酒にだけは不自由しとらん。好きなだけ食え」と、質素なものではあったが餉を振る舞ってくれ、酒まで飲ませてくれた。そのうえこの墨者は、たらふく食って辞去しようした火車に酒や米、稗、粟などを持っていかせようとまでしたのだった。
――墨の教の者とはいったいどういう者なのか……。
その場で少し考えた火車だったが、けっきょく邸を辞去することをせず、そのまま居ついてしまったのである。そしてその後、終には章弦君の客となっていた。……むろん学匠としてではなく任侠の徒としてである。
そんな火車は、垂花門(中門)の下で笠を外し雨滴を払う三人ともが知己の少年たちであると知ると、視線を下ろして手許の作業に戻った。
いっこうに降り止まぬ雨の中を垂花門まできた三人は、そのまま中庭を突っ切って正房へ行くのは止め、門の脇にのびる回廊から廂房の軒の下を伝って正房までまわることにしたようだった。
回廊をまわった一行が西廂房の軒下をいくときの、窓辺で酒杯を傾ける尊寶と大慶の姿に気づいた三人の少年たちの対応は、それぞれに特徴的だった。
先頭を歩く痩せた少年は、正房の南宮唐へのあいさつを済ますのが先とばかりに、尊寶と大慶にはわき目もさえ振らず、まっすぐ前を向いて廂房まえの回廊を急いでいる。彼が件の〝亡涼君〟――何捷だろう。癇の強そうな顔立ちをしている。
その後ろを立青と並んで追う柔和な面差しの少年が徐云――簡家の娘の勇敢な僕か。彼は大慶の顔をみとめると軽く会釈をし、傍らにいた初対面の尊寶にも会釈をして先頭を追った。
立青はふたりの顔をみとめるや窓の前で立ち止まり、きれいな所作で長揖の拱手(※)をしてみせ、それから先をいくふたりを急いで追った。
尊寶は、
――…火車もそうだが、よくもまあ南宮唐は、このような〝浮き草〟のごとき者に目をかける……。
と、そんなふうに思いつつ、自身もまたそのようなものかと、ひとり胸の内で苦笑するのだった。
(※ 立場の低い者が高貴な人に向けて行う礼。直立し、手のひらを内側に向けて両手で拳を握り、額の高さまで掲げ、九〇度以上の深いお辞儀をする)
徐云は、何捷・立青とともに、正房の一室でなにやらむずかしい機械の模型をまえに思案顔をしていた南宮唐に形ばかりの挨拶を済ませると、すぐに回廊を取って返した何捷を追うように西廂房に戻ってきた。
そして洪大慶の横で酒杯を傾ける美男子とあらためて対面し、兵法の師から、章弦君の食客で遊説の術を持つと紹介された。
こうして徐云と何捷は、蕭尊寶との面識を得たのである。
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