第78話

文字数 1,656文字


 一足先に亀城に入った(ホー)(ジェ)は、洛邑の都城を(はさ)んで西の空を落ちゆく太陽を遠く見やり、言葉なく表情を引き締めていた。
 今宵の段取りはすべて済ませてある。
 (ツァィ)才俊(ツァィヂィン)の、(シャオ)尊寶(スンバォ)への執着はやはり本物で、そのために(リャオ)振瑞(ヂェンルイ)を〝餌〟として桃原に送り出すことに、何らの躊躇も見せなかった。
 その蔡才俊の意向に従って、何捷は策を弄したのだった。
 出立は人目を避け、かつ白河に船を出す際に危険を伴わぬよう陽が上がってから、ということで夜明け頃とした。
 夜半に都城を()でて亀城に入り船に乗り込む。そして夜明けとともに亀城の桟橋を離れる。
 (シュイ)(ユィン)も懸念した随行の衛士の員数については、正使ではなく前折衝の密使とすることでその数を減らした。代わって、洛邑東門から亀城の桟橋に至る道すがらに、常ならぬ数の衛士・警吏を人目に付かぬように配置させている。一朝事あらば(=何かあれば)、捕り物が始まる手筈である。
 日程を含めたこれらの話は、衛士・警吏の増強の件を除き、繋ぎに火車(フゥオチゥー)を指名して尊寶に伝えてある。
 その際には、詳細が徐云の耳に入らぬよう注意を払った。彼にはこの捕り物のほんとうの意――蕭尊寶を捕らえ帰順を促すこと――を伝えていないし、また伝えるつもりもなかった。徐云は、赤心( )(嘘偽りのない心)から自分が協力していると信じているだろうから、〝自分も何か〟と、余計なことをやりだしかねない。だから遠ざけることにした。
 それに、何より彼は、この手の陰謀めいた話に向いた人物ではない。

 目下のところ、段取りは順調に進んでいた。
 ただ一つ、目論見と違ったことといえば、成り行きから都督畿内三監四関諸兵事に就いていた(リィゥ)(マン)が、今宵の件に限ってはその役責を(まっと)うしたいと、亀城に詰める何捷に同道を申し出たことくらいである。変な嗅覚のある男だと、今さらながら何捷は思う。
 だから亀城の西郭門の門殿から西の空を見やる何捷の隣に、流満も並んで立っている。

「だいぶ雲行きが怪しくなってきよった」
 流満の、よく通る、人懐っこい声を聞いた。
 逢の宮廷で亜卿という高位を得ても、この男は、余程のことがなければ沿海の(なまり)を改めようとしない。そしてこの男が()()に違和感を感じさせないのにも、何捷はもう慣れている。
 そうしている間にも、夕雲は先刻までの明るさを失い、熟れすぎた果実を思わせる鈍い朱色に変じていた。
「だが、雨にはなるまい」
 何捷は声だけで応じた。
 逢の亜卿に対して明らかに不遜な振る舞いである。が、他にひとが居なければ、それがふたりにとっては常のあり方なのだった。
「なあ、(リィゥ)次倩(ツーチィェン)――」
 遠く都城の城楼に重なる府第と王宮の建物が黒々とした影となって、わずかな残照を残す空の下にあるのを見て、何捷は流満にふと訊いてみた。
「――洛邑に来て、そろそろ二年になる。俺たちは〝望んだもの〟を、手に入れたのだろうか?」
 太師が宮中に権勢を揮っていたつい先日までは、蔡宰輔の変法を形にしていく事業の中、いつ天下がひっくり返るかとの緊張で、毎日が充実していた。それが太師が失脚して王淑閥の力が減じ、宮中の今後の大勢が見えてくると、もう何もかもが色褪せていって、手ごたえがなくなってしまった。
 自分が欲しかったのは、このような手ごたえのないものだったのだろうか。
 そんな虚しさにも似た思いを、ともに逢の王府に入り込んだ流満もやはり感じているのだろうか。

「その答は〝()〟であって、〝()〟でもあるな」
 流満は、めずらしく笑いを消し、神妙な面持ちになって応じた。
()()は、もとより〝目の前にある〟ものは全部手に入れる(たち)やし、かっこうつけた望みなんてものは(はな)からあれへん。いまが面白けりゃ、ほんでええわ。……そこのとこはおまえとはちゃうからな…――もともと〝世直し〟みたいなもんに期待してへんのや」
 その不思議な物言いに、何捷はあらためて自身を省みることとなった。

 ――そうか。
  ……俺は、〝世直し〟に期待してたんだっけか。

 間もなく閉門鼓が鳴る刻限である。
 黎明まで、長い夜となりそうだった。
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