安在 (11月9日9:50~11:30)
文字数 2,510文字
会社を無断欠勤し、布団をかぶり、ベッドの上で震えている。
もうおしまいだ、裏切られた、と繰り返しブツブツと呟く。
昨晩、待ち合わせの時間から2時間経っても
安在にとってはとても衝撃的だった。
確かに、最初はハニートラップで騙されたと思ったし、色々怯えて警察に駆け込んだこともあった。
だが、最近の安在は警察よりも
アレクセイに心の比重が置かれていた
。やはりどこかアレクセイを裏切れない心持ちだったのだ。
受け渡しに関しての情報は、会社の先輩から渡されたUSBに、自分が引き出した情報や研究成果を加えてアレクセイに渡すこと。
アレクセイはいつも電話でほめてくれていた。
悩みも聞いてくれた。
こんな視点もあるよ、と研究にアドバイスをしてくれた。
会社の先輩だって、フォローしてくれる。
一緒に飲みに行くこともある。
協力させ、見張っているだけの警察とは大違いである。
こまめにスマホを出しては着信がないか確認するが、アレクセイからの連絡はない。
アレクセイが自分の前から居なくなるはずがない。
きっと何かあったに違いない。
そう思い直すも、不安で心がいっぱいだった。
帰宅する気にもなれず、街をふらふら当てもなく歩いたところまではまだ良かった。
もうすぐ22時になる。
閉店時間間際の家電量販店の入り口が目に入る。
入り口付近に設置されているテレビから流れた速報で、安在は一気に現実に引き戻された。
21時頃に【安在にUSBを渡していた会社の先輩が逮捕された】という速報だった。
今回、アレクセイ――R国スパイは現れなかった。
まさか、原因って――
急ぎ周囲を見回す。
公安の見張りは見つけられない。
今まで、公安は「証拠を集める」と言っていた。
今回の接触で常習性の証拠になるとも言っていた。
だが、今回は失敗してしまった。
そして、なぜか先輩が捕まっている。
ここで、自分は警察に捨てられたと理解した。
次が自分だということも。
人ごみをかき分けて走る。
細い道に入り、曲がって――とにかく走った。
目についたホテルに偽名を使い、チェックインする。
安在は荒れた。
喚いたし、叫んだ。
隣室から苦情が入ったのだろう。ホテルのフロントから数回注意された。
家族が待つ家に帰るのも怖く、叫んでも気が収まらず、自販機で酒を複数購入した。
浴びるように飲む。
その結果、辺りには飲み終わった酒類の缶が散乱していた。
もう何度言ったか分からないくらい、もうおしまいだ、裏切られた、と繰り返し呟く。
警察への恨み言、ハニートラップではめてきた
カーペットには若干染みができているようだ。
迷惑行為を繰り返したため、この後恐らくこのホテルは出禁になるだろう。
だが安在にとって、そんなことはどうでもよかった。
「何でなんだよぉ……!!」
泣いていると、突然ドアがノックされる。
フロントだろうか。そういえば1泊しか取っていなかった。
確か10時がチェックアウト時刻だった気がする。
そう思い、体を引きずるようにしてドアまで行き、返事をしつつ鍵を開けた。
「は――」
「こんにちは。
ドアの外に居たのはホテルマンではなかった。
スーツを着た外国人の男が流暢に日本語で話しかけてくる。
顔には貼り付けたような笑みを浮かべていた。
――まさか。
「入らせてもらいますね。」
一瞬の隙をついて、男性は室内に侵入した。
安在は動揺する。
振り向きざま、男性は告げる。
「ああ。チェックアウト時刻ですが、フロントに頼んで同じ部屋でもう一泊できるようにしましたよ。なので、安心してくださいね。」
そもそも、どうしてここに泊まっているのがわかったんだ?
偽名を使って宿泊したはずなのに。
というか、この人は誰だ?見たこと無いが連絡役か?
動揺する安在を無視して男は続ける。
「さて、私の名前はヴラジーミル・ヤーコヴレヴィチ・ベレゾフスキーです。昨晩は
私の部下
が失礼いたしました。アレクセイから安在さん宛に伝言を預かっています。」「伝…言…?アレ、クセイ…から…?」
「はい。」
ああ、やっぱり来なかったのは何か理由があるからだったんだ。
きっと、アレクセイなら自分を助けてくれるに違いない。
自分の研究は国内外でも認められている。
アレクセイなら、きっと――
「――君はもう要らない、と。」
「――え…?」
「あなたは用済みです。お疲れ様でした。アレクセイは本日13時に大使館を出て、羽田空港から国へ帰ります。もう、誰も、あなたに接触してきませんよ。――接触してくるのは
日本の警察だけ
です。では、ごゆっくり。」――アレクセイに……捨てられた?
微笑むヴラジーミルは踵を返し、ホテルのシングルルームから出ていこうとした。
その足に安在は縋りつく。
「――うそだ…噓だ嘘だうそだ噓だ嘘だ噓だ嘘だ噓だ嘘だ噓だ嘘だ!!!」
「離せ。邪魔だ。」
あっさり振り払われ、安在は泣きながら尻もちをつく。
ヴラジーミルは即座に部屋を後にした。
室内には安在の声が響いた。
――20XX年11月9日 11時30分 R国大使館
コツ、コツ、と階下廊下の左側から規則正しい足音が聞こえてきた。
アレクセイは階段を降り、左に曲がる。
そこに居たのはヴラジーミル・ヤーコヴレヴィチ・ベレゾフスキー先輩だった。
「やぁ、
ヴラジーミル先輩は右手を差し出し、挨拶してきた。
自分も右手を差し出し握手をかわす。
アリョーシャとは、アレクセイの略称――親しい人が呼ぶニックネームのようなものだ。
ヴラジーミル先輩は大使館に勤務する前からお世話になっていて、自分とは仲がいい。
どうやら手筈を整えてくれていたらしい。
心配はいらないということだろう。
「
アレクセイは手を胸において、返事をした。
ちなみに、手を胸に置くのは「心から」や「正直」を表すジェスチャーだ。
アレクセイは心からの感謝を先輩に示した。
先輩と別れ、歩き出す。
アレクセイは荷物を準備したのち、事の成功を願いつつ13時を待つことにした。