第130話 沢木、心筋梗塞で緊急入院する

文字数 2,141文字

 それは沢木が本社営業部の部長に昇進して三年目の、五十二歳の時だった。
会社は毎年三月中旬に幹部研修会という名の大掛かりな全社経営会議を開催していたが、今年も例外ではなく今日がその日であった。
 会議は定刻に始まった。
進行役の社長室長が会議の趣旨とスケジュールを説明し、会長が開会の訓示を垂れた。
会長の次に演壇に立った社長は、今の好況の波に乗って更なる成長を期す為に、新製品の開発とそれを可能にする新技術の確立、それに新しい大口ユーザーの開拓を声高に訴えた。
「百億円の利益上積みはミニマムだ、利益を上げられない事業など何の意味も無い。事業解体して部門が霧散霧消するのが嫌なら何が何でも利益をさらに積み増すことだ!」
間も無く、沢木は途轍もない疲労感を覚えた。
 異変が生じたのは、営業を統括する大田常務が檄を飛ばし始めた時だった。
突然、二、三度身体に震えが走り、胸が圧迫されて、沢木は椅子の肘掛を握り締めた。
鳩尾の奥の方、食道と胃の繋ぎ目辺りがぎゅう~っと締め付けられる感じになり、痛いと言うよりも圧迫感で気持が悪くなって来た。沢木を本社営業部長に登用してくれた大田常務の赤ら顔が霞み、その恫間声は訳の解からぬ音声となって沢木の頭上を飛び交った。沢木は額に脂汗を滲ませ、吐き気を堪え、深呼吸をして身体の震えを抑えようと努めた。五分、否、十分ほど経って、漸く潮が引くように治まって行った。経営会議は沢木の中で秩序と静謐を取り戻し、彼はその構成員に復帰した。そして、幸いにも会議が終わるまで、沢木は平常を保つことが出来た。
 自宅に帰り着いた沢木は深夜になって吐き気を覚えて目覚め、起きて胃薬を飲んだ。ところが、治まるどころか更に激しい締め付け感が襲って来て、背中や肩の筋肉も痛み出し、その上、大量の冷汗が、髪の毛がびしょ濡れになるほどに流れ出て来た。それは今までに経験したことの無い量だった。鳩尾のきつい締めつけ感、節々の痛み、大量の冷汗・・・これは何時もと違うな、と沢木は思った。妻の恵子を揺すり起こして言った。
「これは、ちょっとヤバいかも・・・救急車を呼んでくれないか」
救急車は二十分ほど走ってサイレンを止め、スローダウンして停車した。市立総合病院の救急玄関口だった。 
「沢木さん、あなたは今、急性心筋梗塞になって居られます。比較的危険な状態なので緊急手術が必要です。手術はいわゆる心臓カテーテル、ステント留置を行います。あなたの場合は足の付け根即ち大腿動脈から心臓まで管を通して処置します。心配しなくて良いですよ、大丈夫ですから」 
 恵子の気持は激しく動揺していた。恵子の頭の中を沢木の不在が掠めた。
沢木の居ない人生など考えられなかった。それがどういうものなのか想像もつかなかった。結婚してからずうっと一緒で、二人の人生には希望の光が溢れていた。恵子は独立して自分の事務所を持ち、新人を雇って先生となっている。二人の子供の母となり、家庭を切り盛りして、大会社の本社営業部長である沢木を懸命に内助している。そんな明るい現実がこれからも未だ未だ続く筈だった。恵子は、万一、沢木が死にでもすればそれほど酷いことは無い、と思った。胸が塞がれた。
 
 翌日、沢木はカテーテル室から同じ階にあるICUに移された。
昼過ぎになって担当医師が診察にやって来た。
「モニターしていた心臓の鼓動が宜しくありません。不整脈や不規則な鼓動がある。どうやら心不全を起こしている疑いが強いです。念のため、一時体外設置型のペースメーカーを設置して、心臓の動きを安定させます」
自覚症状が全く無く「ペースメーカー」と言う言葉の響きに沢木はビビったが、開始から終了まで一時間程度のものだった。
 恵子は夕刻に慌しくやって来て、ペースメーカーを付けた沢木の姿に驚いた。
恵子は沢木の入院以来、気丈に振舞っていたが、自宅に居る時も仕事をしている時も、病院からの連絡には相当に神経を尖らせていた。食事を愉しんだりテレビを観賞したりするなど到底出来なかった。恵子は胸を湿らせた。 
思えば、沢木は絶えず何かに追い捲られて、心と身体の為にじっくりと休んだことなど一度も無かっただろう・・・恵子は内心激しく後悔していた。
こんな状態になるまで私はずうっとこの人の異変に気付かなかった。結婚してからずうっと私はこの人にどれほど寄り添ったというのだろう?自分の仕事のことだけにかまけて、ちゃんとこの人にどれほど向き合って来ただろうか?結婚して様変わりした生活への対応、好き合って一緒になったとは言え、生まれも育ちも違う他人同士が四六時中同じ屋根の下で暮らす気詰まりや気遣わしさ、この人の仕事の上のストレス、そんなことにどれほど思いを至らせただろう、恵子は自分を責めた。
沢木は恵子の心持を慮って、済まない、申し訳ない思いで胸が一杯になった。
 翌朝の回診で医師と看護師から順調に回復していることを告げられ、心臓の状態も安定したということでペースメーカーが外された。
沢木は今、全てに行詰っていたような気がしている。ここ数年は希望という名に値する何かを持っていたことも無い。そんな状態が随分長く続いている。入院して初めて、そのことに今更のように気づいたのだった。
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