第94話 老婦人の生まれ変わりのように奈美が身籠った

文字数 1,078文字

 半月後・・・
「ねえ」
奈美が甘い声を出した。
「何だよ」
奈美が改まった表情で遼司に告げた。
「あんたの子供がお腹の中に宿ったの。産婦人科で診て貰ったら、間違い無い、って・・・この間からずうっと身体の調子が悪かったのは身籠った悪阻の所為だったの」
「えっ、真実なのか?」
遼司は驚きのあまり言葉が継げなかった。
まさか、俺の子供があいつの腹の中に・・・
遼司は焦点の定まらぬ視線を宙に泳がせた。が、それ切り何も言わなかった。
 
 三日間の時間が流れ過ぎた。
店が休みの日の夕方、遼司が一枚の紙切れを奈美に差し出した。それは夫の欄に署名捺印した婚姻届だった。 
奈美が問い質す面持ちで遼司を見た。
「生まれてくる子供を私生児にする訳にも行かんだろう。俺たち、ちゃんと籍を入れて夫婦になろう、な、奈美」
「えっ!」
思いもしなかった遼司の言葉に、奈美は言葉が出なかった。
てっきり子供を堕すか別離話が持ち出されるものだと、半ば覚悟を決めていた奈美は、一瞬、息を呑んで眼を見張った。
「お前も、他人がテレビを観たり眠ったりする時間に働く今の仕事を好きでやっている訳ではないだろう。若い頃は普通のOLになってその後は然るべき家庭に入るのを夢見ていたんじゃないのか?お前も俺ももういい歳だし、今がちゃんとした形にするチャンスだと思うが、どうだ、俺と一緒に二人で生きて行く気は無いか?」
奈美は眼を大きく見開いてまじまじと遼司の顔を凝視した。その眼から見る見る大粒の涙が溢れ出した。流れる涙を拭いもせずに奈美は肩を振るわせた。
「私のような女で良いの?」
「ああ、お前が良いんだよ」
「真実に私で良いのね」
「ああ・・・」
「産んでも良いのね」
「ああ、良いんだよ!」
奈美が遼司に全身でしがみついて来た。
 奈美は泣いた。二十歳から夜の泥水の中で、虚勢を張って独りで突っ張って生きて来たこの五年間の辛苦を、全て吐出するかのように泣き続けた。
声を殺し両手で顔を蔽って嗚咽する奈美の背中を抱きながら、遼司は、こいつもこれほどまでに普通の生活を望んで居たんだ、こいつと二人で、否、産まれる子供と三人でもう一度生き直してみよう、そう心を決めた。そして、これはあの老婦人が俺に与えてくれる「生まれ変わりの命」だと思った遼司は、改めて、桐島美禰を懐かしく偲んだ。
「沖田さん。何時も親身になって元気に励まして頂いたこと、私は心から感謝していますよ。それに、この天国では独りで自分の足でちゃんと歩けているわよ、ほら。だから貴方もこれからの人生を地に足をしっかりつけて真直ぐに歩いて行って頂戴ね」
老婦人の澄んだ声が聞こえた気がした。
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