第9話 聡と由美は縁結び神社「お初天神」へ出かけた 

文字数 2,197文字

 半月後の夕方、和服姿の光江が中央大通りと御堂筋の交差点を渡り終わった処で携帯のボタンを押した。目指す相手は直ぐに電話に出た。
「一寸お話ししたいことがありまして・・・」
「では、久し振りにミナミへでも出ましょう。これから直ぐに出ますから・・・それじゃ、後ほど」
通された座敷の長卓の上に盛り沢山の絶品料理が並べられた。光江が竜崎のグラスにビールを満たした。
二人はグラスを軽く合わせた。が、その時、光江の顔がふっと曇ったのを竜崎は見逃さなかった。
「先日、由美君の恋人が私の処へ来ました」
「私、実は今日、そのことで・・・」
「解っています。あなたから電話を戴いた時に直ぐにそれと判りました。何も言いますまい。然し、そういう歳になったんですねぇ、あなたも私も・・・」
「あれはやはり、あの頃だけのことにしておけば良かったのですわ。そうすれば、あなたも私も、今頃になって、こんな思いをしなくても済んだんだと思います。でも、やはり、私は、何時までもあなたに甘えて居てはいけないんだ、と思い至りました」
竜崎が静かにグラスを飲み干した。
「やはり私がいけなかったんだ。あの時、思い切ってあなたの処へ走っていれば良かったんだ。だが、出来なかった。甘えていたのは私も同じだ」
光江がビールを口に運び、竜崎も一緒に呑んだ。
「然し、これからも時々こうして、誰にも知られずに、二人だけで逢ってくれません?」
だが、光江はゆっくりと首を振って拒んだ。
「そのお気持は真実に嬉しく思いますわ。でも、私はそれほど心の切り替えが容易く出来る人間ではありません。それが出来ればもっと気楽に生きて来られたと思います」
「そうですか・・・残念だが、あなたがそう言うのなら・・・」
大人二人の静かな毅然とした別離だった。
 
 夏の陽光がカッと照り始めた七月中半過ぎの週末、聡と由美は会社の帰途に、良縁や縁結び、恋愛成就のパワースポットである「お初天神」へ連れ立って出かけた。丁度、七月の第三金曜日でお初天神夏祭りの宵宮の日だった。曽根崎警察署の前を通って「うめだ花月シアター」の辺りに来ると既に夥しい人の群だった。
二人は「曽根崎お初天神通り」のアーケードを潜って「お初天神商店街」へ入り、噎せ返る人の群に揉まれながらその先に在るお初天神へと歩を進めた。遅々として進まない道行きの中で由美が聡に訊ねた。
「なんで“お初天神“と言う名前が付いたのかしら?」
「正式には“露天神社”と言うんだが、江戸の元禄時代に恋仲のお初と徳兵衛が神社の境内で心中をしたんだ。実際に在った話だ。で、それを題材にして近松門左衛門が“曽根崎心中”という芝居を書いた。これが当時の大衆に大受けして、悲劇のヒロインであるお初の名が広く知れ渡り、神社もその名前で呼ばれるようになった、と言うことだ」
「二人は何故、心中なんかしたの?」
「それはだ、な・・・」
聡が語った話の大筋はこうだった。
 醤油屋の手代徳兵衛と遊女のお初は恋し合う仲だったが、二人は生玉の社で久し振りに偶然に出会った。便りの無いことを責めるお初に、徳兵衛は逢えなかった間に自分の身に起こった大変な出来事を彼女に語った。
 徳兵衛は実の叔父の家で丁稚奉公をしていたが、誠実に良く働くことから叔父の信頼を得て、店主の姪と結婚させて店を持たせようと言う話が持ち上がった。徳兵衛は、お初が居るから、と断ったが、叔父は徳兵衛が知らない内に継母に結納まで済ませてしまった。固辞する徳兵衛に叔父は怒り、とうとう勘当を言い渡した。
徳兵衛はやっとの思いで継母から結納金を取り返したが、途中、どうしても金が要るんだ、と言う友達の九平次に出逢って、三日限りの約束でその金を貸してしまった。
期日が着て徳兵衛は九平次に返済を迫ったが、九平次は証文まで在るにも拘らず「借金など知らぬ」と言って、逆に徳兵衛を大衆の面前で詐欺師呼ばわりし、散々に殴りつけて面目を失わせた。兄弟と呼ぶほどに信じていた男の手酷い裏切りに、徳兵衛は、死んで身の証を立てるより他に潔白を証明し名誉を回復する手段は無い、と考えた。
覚悟を決めて秘かにお初の元を訪れた徳兵衛を、お初は、他人に見つかっては大変、と縁の下に匿った。其処へ九平次が客としてやって来たが、お初に素っ気無く扱われ、散々徳兵衛の悪口を言って帰って行った。縁の下で怒りに拳を震わせつつ徳兵衛はお初に死ぬ覚悟を伝えた。真夜中、二人は手を取り合って露天神の森へ行き、互いを連理の松の木に縛って覚悟を確かめ合うと、徳兵衛は脇差でお初の喉を突き自らも首を切って命を絶った。
由美は感動に胸を震わせながら聡の話を聞いていた。
 話している内にお初天神の鳥居が見えて来た。
「俺たちが心底愛し合っている深い思いの、その真実の覚悟を、二人で確認し合うのだからな、良いな」
由美は大きく眼を見開らき、聡の顔を正面から見詰めてしっかりと頷いた。
 お初天神を抜けて大阪駅への道すがら、由美が言った。
「あなたがあそこへ私を連れて行った訳が解かった気がする」
「うん?」
「愛し合う二人の愛は、叶わなければ一緒に死ぬってところまでの、お初と徳兵衛のような深い絆と強い覚悟が無ければ駄目なのね。何が有っても互いに信じ合って二人の愛を成就させる。私は改めて今日、あなたとの愛の成就に強い覚悟と揺るぎ無い信念を持てたように思うわ」
二人は新たな気持で見交わし合った。
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