第13話 彼女の心が幸せに行き着くのはいつの日だろうか?

文字数 1,952文字

 二人が向かったのは翔子の生まれ育った西陣だった。小学生だった頃、翔子は夏の日の
午後、よく自転車に乗って生まれ育った西陣の街中を走り回ったものだった。 
 応仁の乱で西軍総大将の山名宗全らが堀川よりも西の土地に陣を構えたことから「西陣」
の名が始まった。京都では大昔から織物作りが行われ、平安時代には現在の西陣の南側に
織物職人が集まっていた。平安後期には「大舎人の綾」「大宮の絹」と呼ばれる織物が作
られ、独自の重厚な織物は寺社の装飾に用いられた。応仁の乱の後、各地に離散していた
織物職人が京都に戻って来て、西陣と呼ばれるこの地で織物づくりを再開したのである。
西陣の入り口で翔子は車を停め、向井と連れ立って一緒に降りた。車はそのまま引き返えして行った。
 西陣の屋根は一面に暗い色をして沈んでいた。が、屋根の所々が四角に光っていた。その光っているのは、西陣の家々の電燈の下の生活が空へ流れて行く窓口となっているのだった。昼はその屋根のガラスの窓から陽の光が零れて入り、夜は其処から西陣の夜の生活が空へ向けて黄色く輝くのである。それは“天窓”だった。
星がきらきらと輝いている今夜は、その四角な窓は二つ三つと消えて行って、西陣の屋根は一面に暗い色で深く沈んでいた。
路地が三方に分かれて続いていた。紅殻格子が隣り合って並ぶ間を、屋根と屋根とが隣り合って並ぶ間を、生活の風の吹いている路地が続いていた。吹き溜まりには石の地蔵が在って寺の門に続いていた。
翔子が屋根の犇めく路地の奥を見やって言った。
「屋根と屋根との近接している間の路地は、西陣に生き続けて来た音を封じ込め、生活の風の吹いている路地は曲がって、歴史の奥へ通う風の道に続いているの」
西陣で生まれ育った翔子の心の中には、歴史の流れる音がしているのではないか、それが彼女の音楽の原点ではないか・・・向井はそう思った。
 
 西陣を後にした二人は堀川の一条に架る橋の袂で足を止めた。
一条戻り橋・・・
「戻り橋」の名は、大昔、漢学者三好清行の葬列がこの橋を通った際に、父の死を聞いて急ぎ帰ってきた熊野で修行中の息子浄蔵が棺にすがって祈ると、清行が雷鳴とともに一時生き返って父子が抱き合った、という話に由来している。
嫁入り前の女性や縁談に関わる人々は、嫁が実家に戻って来てはいけないという意味から、この橋に近づかないという慣習があるし、逆に太平洋戦争中は、応召兵とその家族は兵が無事に戻ってくることを願ってこの橋に渡りに来ることがあったと言う。
「渡ってはいけないということと渡らねばならないと言うことの二つの意味を持つ橋と言う訳か・・・」
「わたしは此処から出ることも戻ることも出来ないで居るの・・・」
翔子はそう言って橋の中央で立ち止まり、暗い川を見下ろした。
翔子の肩が微かに震え出した。向井には翔子が泣いているように見えた。
翔子は、幼い頃、此処で父親と交わした会話を思い出していた。
「お前の母はこの戻り橋を渡って行ったのに、お前のところには帰って来なかった」
「この橋を渡って、何処かへ、なんで、行ってしもうたんや?」
「父にもそれは解らない。母もお前の処だけへは帰ろうと思って、この戻り橋を重たい心
で渡って行ったんだろうよ」
「戻り橋やのに、なんで、戻って来いひんかったんや?」
「戻り橋を渡って行ったからと言って、戻って来ると決まっているものではない。人間は
どうにもならない時、暗い風の吹く向こうに光っている何かを見たいから、そうするだけ
なんだよ」
「みんな悲しいのやなあ」
「そうだとも。みんな悲しいものだから、戻り橋を暗く重たい心で渡って行くのだよ。見
てごらんこの水の色を。真っ黒に空が映っているだけだよな」
向井が翔子の肩を優しく抱き寄せ、翔子はその広い胸に顔を埋めた。やがて、顔を上げた
翔子の唇に向井の唇がそっと重ねられた。
「わたし、あなたに幸せにして貰いたいの」
翔子が囁いた。切実な思いが籠められている声だった。
 躰を離した二人はまた連れ立って歩いた。
だが、暫くすると翔子の声が湿って来た。
「東京になんか帰りたくない。此処にあなたと居たい。ねえ、この京都で二人だけの家を
買って一緒に住もうよ。ツアーは止めて一年に一回、レコードを吹き込めば良い、この生
まれ故郷の京都で・・・」
然し、彼女は其処で口を噤んだ。一瞬膨らんだ希望が破れた風船のように萎んで、彼女を
冷酷な現実に引き戻したようだった。故郷の戻り橋から遠く離れて、ひとり途方に暮れて
いる翔子の姿が哀れで、向井は胸が引き裂かれそうだった。
「さあ、行こう」
街路はいつもより暗かった。抱き締め合うようにして二人は歩いた。傍らを通り過ぎる車
の車輪が絹を引き裂くような音を立てた。
彼女の心が幸せに行き着くのはいつの日だろうか?・・・。
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