第20話 雅美には二つ歳上の恋人がいた

文字数 1,994文字

 二十三歳になった雅美は大学を卒業して小さな出版社に勤めていた。入社してから一年余りの間、森本明と言う十歳年嵩の先輩社員にいつも口説かれていた。
「俺と寝ようよ、なぁ、一度で良いからさ」
森本は酒に酔うと、周りに人が居ようが居なかろうが、いつもそう繰り返した。或る時は投げやりに、或る時は真剣に、また或る時は冗談に聞こえた。
「俺はもう生きているのが面倒臭いんだ。だが、君に恋しているのは真実だ、絶望的なほどに、な」
 森本には既に振り捨てることの出来ない妻と子供が居た。彼は分譲マンションの狭い一室で、英和辞典を頼りに小説の翻訳の下請けをして飲み代を稼いでいた。
雅美はそうしたことをみんな知っていた。だから彼女は、俺と寝よう、と森本から言われると、周りに人が居ようと居まいと、フンと鼻先で嘲っていた。
 雅美はワンルームマンションに独り住まっていた。給料の足りない分は土日の休みの日に、街の小さな印刷屋の帳簿記けに通った。名ばかりの社長と工員が二人居るだけのちんけな印刷屋だった。夕方、男たちから誘われれば何処へでも従いて行った。酒を飲み、カラオケで唄い、男たちと肩を組み、足を縺れさせて歩いた。だが、自分のマンションに男たちを入れることは無かったし、何処であれ、男たちと寝ることも無かった。男たちに支えられて歩きながら、ある時間になると急にその手を振り払い、自分の足で真直ぐに歩いて自室に帰った。それは印刷屋の男たちだけでなく出版社の男たちに対しても同じだった。それは若い雅美の誇りと矜持であった。
 
 雅美には二つ歳上の恋人がいた。
それは雅美が高校二年生の夏の出来事だった。
通りの角に在る大きな書店の前の雑誌を積み上げた平台の所で、雅美は漫画雑誌を立ち読みしながらクスクス笑っていた。が、直ぐに笑いを消してチラッと周囲に目を走らせ、店員や周囲の人間が此方を見ていないことを確認すると、手に持っていた雑誌を左肩にかけたショッピングバッグに落とし込んだ。そして、何食わぬ顔で手を伸ばして別の雑誌を捕ると、其のまま又、立ち読みを続けた。
が、次の瞬間、店の奥の方で何かが動く気配がした。雅美は其方へ素早い視線を走らせると、手に持っていた雑誌を平台に戻し、ゆっくりと店先を離れた。そして、五、六歩歩いた後、突然、身体を翻して広い歩道を駆け出した。それと同時に、店の奥で鋭い叫び声がして若い店員が飛び出して来た。
「こらっ、待てぇ!」
雅美は最初の小さな四つ辻を左へ曲がった。然し、雅美と店員の若い男とでは身の軽さも動きの速さも格段に違っていた。彼女は必死で再び四つ角を曲がり更に走って右へ折れた。
が、其処で、突然、一人の若い男に出くわして、雅美は怯えた眼で男を見た。
「逃げろ!頑張るんだ!」
男は低い声でそう叫ぶと、雅美からショッピングバッグを引っ手繰るように奪い取って自分の脇の下に抱えた。そして、息を切らせてしゃがみ込みそうな雅美の手首を掴み、彼女の身体を引き摺るようにして走り続けた。雅美は自分の手首を掴んだ男が味方だと知って、気を取り直したようにまた走り始めた。後ろで店員の罵り声が弾けた。男は雅美を引き摺りながら脇道から脇道へ曲がって走った。入り組んだ住宅街の町並みが二人に幸いした。後を追う足音はいつしか聞こえなくなった。
 それから、三十分後、二人は書店から反対方向の大きな河川敷に居た。
「あの漫画、そんなに面白かったのか?」
「・・・・・」
走り疲れて河原で横座りしていた雅美は声を掛けられて男の方を見上げた。
「さっき、立ち読みしながら忍び笑いをしていただろう?」
「ああ、あれ、面白いよ。見て見る?」
雅美はショッピングバッグから雑誌を引っ張り出してペラペラと捲っていたが、直ぐに、目指す漫画へ行き着くまでに別の漫画に引っ掛って、男を立たせたまま、一人でまた笑い声を上げて熱心に読み始めた。
「君、何て言う名前?」
「わたし?」
男の声に雅美は読むのを止めて顔を上げた。
「私の名前?私は藤本雅美。友達は皆、マミって呼んでいるよ。あなたもそう呼んでくれれば良いわ。で、あなた、何て言うの?」
「俺は松木忠夫。友達はチュウって呼んでいる」
雅美は立ち上がると数歩歩いて、今まで読んでいた雑誌を傍らに在った紙屑籠の中へ突っ込んだ。
「なんだ、折角苦労して盗ったのに、勿体無い」
「良いの。漫画なんて立ち読みで十分よ。部屋まで持って帰ったりすると精神が堕落するわ。それにお金出して買ったりしてもね」
雅美は忠夫に向かって、共犯者宜しくにっと笑ってみせた。
「でも、チュウにマミって良いじゃない?ねぇ、これから先、そう呼び合おうよ、お互いに、ね」
「うん、それも良いかも、な」
雅美は思っていた。
本来なら掴まえて警察に突き出すべきところを、この人は、逃げる私を助け庇い護ってくれた・・・
こうして二人は運命的な出逢いを果たしたのである。
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