第16話 「天使」と純一の出逢い

文字数 2,431文字

 初めて「パラダイス」に姿を現したその日から彼女は「天使」と呼ばれた。十九歳だった。しみ一つ無い真っ白い肌、胸から伸びているような長い脚、小股の切れ上がったヒップ、括れたウエスト、先の尖ったデボネアのバスト、男たちの誰もが痴呆の如くに見惚れてしまう見事な肢体の持ち主だった。
 その最初の日、彼女に会った店の社長は、人差指でテーブルを叩くこともしなかったし、暗い客席から大声を出すこともせず、正式なオーディションを受けさせることもしなかった。その肌と脚と肢体を一目観て、即座に彼女をダンサーとして雇うことにした。彼女の名は、新藤麻耶、と言った。
「パラダイス」は鹿児島市最大の歓楽街である「天文館通り」の真中に店を構えるグランドキャバレーだった。時間制料金の明朗会計でクラブの高級感を併せ持ち、ショータイムもある大きな店で、専属ダンサーが出演する本格的なショーが行われていた。
 それから一年と言うもの、「天使」は「パラダイス」の誇りの一つだった。どのウエイターからも愛されたし、皿洗い達も彼女を見かけると決まって丁寧にお辞儀をして挨拶をした。社長も店に来ると、必ず真っ先に「天使」の顔を見に楽屋へ顔を出した。
「天使」が誰からも好かれた理由は、その愛すべき天真爛漫さに在った。
彼女は自分の顔より脚を高く蹴り上げることが出来たし、ダンスも上手かった。が、演技はあまり達者ではなかったし、声は往来を飛び交う雀のように擦れていた。音楽教室にも通わなかったし、演技の勉強にも興味を示さなかった。東京へ出て輝く太陽系の星の一つになろうという野望など、毛頭抱いて居なかった。「天使」はただ素晴らしい肢体の持ち主の、愛すべき女性であり、ウエイターと言わず他のダンサーと言わず、しょっちゅうぶつかっては、その美貌と気立ての良さの故に,何時も許して貰っていた。
気に入らない人間に向かっては耳が潰れるほどの大声で怒鳴りつける社長も、「天使」に向かって声を張り上げることは一度も無かった。その筋の御兄いさん達も彼女を護ってくれた。小倉辺りから来た組織の人間が、客席最後部の薄暗い席に彼女を引き摺り込もうとすると、決まって、止めろ、ときつい言葉で忠告された。
「天使」は特別だった。彼女は修道院で尼さん達が教える高校を卒業していた。「天使」は誰もが愛すべき女だったのである。
或る晩、下着のバイヤーが叫んだ。
「堪らんなあ、あの肉体には。一発ぶち込んでやりたいよ!」
エレガントなシャークスキンのスーツに身を包んだ男が近付いてその客に言った。
「もう一度あの娘に対して、そう言う口をきいてみな。二度とこの先、モノが言え無えようにしてやるぜ!」
大抵の問題は、そういう言葉が二言三言吐かれるだけで解決したが、中には天文館三丁目のコンクリートの歩道に放り出されて初めて自分の非を認めた客も何人かは居た。
「嶋ちゃん、ありがとう!」
「なあに、良いってことよ・・・」
「ううん、真実に有難うね」
「ああ、それより、気を付けて帰りなよ、な」
誰もが「天使」を護ってくれるのだった。

 そんな折に、或る日、石井純一が現れた。
純一は火野葦平の任侠小説「花と龍」の舞台となった北九州市若松の生まれで、身長一七〇センチ余り、当時二十一歳だった。彼は映画俳優のように目鼻立ちのはっきりした整った容貌をしていた。歌手になるのが望みだった。単なる歌手ではない。あの石原裕次郎になりたかったのだ。それも二十歳代前半の輝ける青春の裕次郎に・・・
裕次郎は純一の憧れの青春だった。
胸のすくアクションの切れ味、男の香りが漂うキャラクター、素肌に直に羽織るように着るワイシャツ、ポケットに両手を無造作に突っ込んだ立ち姿、その長い脚、襟を立てたダスターコート、口の中に放り込むように呑むウイスキー、煙たそうに喫む横に咥えたタバコ、柔らかい低音の唄声・・・
そして、何よりも純一の胸を泡立たせたのは、己の抱える傷を振り返り、惚れた女の幸せの為に、溢れる思いを堪えて、女に背を向けるストイックな男の美学・・・将に、若き裕次郎が純一の青春を支えていたのだった。
レンタルビデオで裕次郎の映画を何本も、何回も観て彼の仕草を真似たし、CDが擦り切れるほどに耳を傾けてその唄い方を似せて行った。
 或る日のこと、オーディションにやって来た純一は右手に煙草を持ち、左手で借り物のタキシードの蝶ネクタイを緩めて、マイクの前に立った。彼は、「嵐を呼ぶ男」、「明日は明日の風が吹く」、「錆びたナイフ」、「俺は待ってるぜ」、それに「赤いハンカチ」を唄った。いずれもが輝ける裕次郎の若い頃のヒット曲だった。
その声は裕次郎のように甘く、肩を揺する仕草も裕次郎そっくりだった。高音は出来るだけ擦れさせ、苦しくなると低音に切り替えて、自己流に節回しをアレンジするところも裕次郎に似ていた。実際、何から何まで裕次郎そっくりだった。
 然し、亡くなって三十余年にもなる伝説的スーパースター石原裕次郎のちんけなミニチュアなど「パラダイス」は必要としていなかった。
そこで、社長が彼に言った。
「あと一五センチ身長を伸ばし、自分にしか歌えない唄い方を身に着けろ。その間に、素人のど自慢大会に出るのも良かろうし、其処らの芸能プロにでも行けば、もしかして、採用して貰えるかも・・・な」
純一は完全に打ちのめされてしまった。
ひんやりした暗い店から温かい夕暮れの大気の中へ純一がとぼとぼと歩き出した時、丁度「天使」がリハーサルにやって来た。彼女はドスンと純一にぶつかってしまい、純一は危うく扱けそうになった。その時、彼女は、純一の頬に白く糸を引いている涙に気付いた。
「まあ可愛そうに、男の子が・・・折角のタキシードが濡れてしまうわよ」
彼女は純一の身体を優しく抱き寄せ、純一は彼女の肩に凭れかかった。純一の背中を撫でながら彼女が慰めた。
「大丈夫よ、心配しなくて良いわ。きっと上手く行くからね」
それが出逢いだった。 
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