第22話 「誰があんたみたいなお爺さんなんかと・・・」

文字数 1,130文字

 店を出た後、小腹の空いた雅美は屋台でラーメンを食べた。森本は雅美の横で焼酎をロックで舐めていた。
「旨そうに食べるね」
雅美は黙ったまま熱い麺汁を啜った。
「君は今、さぞかし幸せに暮らしているんだろうね」
雅美が答えた。
「そうですよ。幸福と言うのは、あなたが手を伸ばして足掻いているような野心とは全く別のものですよ。健康な奥さん、出来の良い子供二人、支払いの半分は既に済んだマンション、それで何が足りないって言うんですか?」
「君はもう十分に生き切って幸せだって言うのか?」
「私は幸せです、いつだって。それに凄く忙しいですから、後振り向く暇なんてありはしません」
「さぞかし毎日、充実して生きているんだろうね」
「あなた、一体何なんですか?毎日充実して生きるってどういうことですか?初めは共働きで、その後、子供が生まれて、直ぐ次の子が出来て、子供から手が離れた頃に奥さんがパートに出て・・・それが充実した生き方で無くて、何が生き切った人生なんですか?」
「何か別の世界が有るって思わないのか?」
「そんなもの、有るもんですか!」
森本は暫く黙った後、悲しいと思えるほどゆっくりと、独り言のように言った。
「扨て、と・・・何処に行こうか?」
それを聞いた雅美は、うるさいわねぇ、いい加減にしてよ、と言わんばかりに言い放った。
「誰があんたみたいなお爺さんなんかと・・・」
それは、もう一年以上もの間、心の中に鬱積して来た思いを放出した言葉だった。
既に三十歳を過ぎて生活の中に否応無く足を突っ込みながら、未だ青春の夢を棄てかねて足掻いている先輩社員など、自分とは何の関係も無い別の世界の人間に雅美には見えた。彼女は二十三歳の若さの驕慢の絶頂で、若さ故の覚束無さに揺れながらも、妻子持ちの未だ三十過ぎの男に、恐れること無く、そう言い捨てたのである。
 森本はゆっくりと顔を雅美の方へ向け、吃驚したように二、三秒の間、彼女の顔を眺めて居た。それから何も言わずに立ち上がり、金を払うと、口の中で何かを呟きながら電車道の方へゆらゆらと歩いて行った。雅美が屋台から見ていると、丁度、赤いランプの最終電車が自動車の途絶えた深夜の道を、傍若無人な音を響かせて近づいて来るところだった。ふらふらと歩いていた森本は、何も言わず振り向きもせず、急に小走りで線路に走り寄ると、其処に倒れ込んだ。ゴツンと言う大きな音と急ブレーキの軋みが聞こえ、頭蓋骨を割った森本は十時間苦しんで、そして、死んだ。
 個人的には何の関わりも持たなかったとは言え、森本の自死は雅美にとっては小さくはない衝撃と恐怖だった。彼女は頭の中からそれを追い払うように、直ぐにタクシーを呼び止めて忠夫の居るマンションへ急ぎ、彼の腕の中で燃えに燃えた。
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