第32話 婚活写真では見えない輝きが在った 

文字数 1,639文字

 田代美千代、小学校の教師を始めてもう直ぐ十年。中肉中背で太くも無く細くもなし、大きくも無く小さくもない。色白の丸顔に切れ長の涼やかな眼には光沢が宿る。微笑むと両頬に笑窪が刻まれる十人並みの容姿、婚活写真では見えないオーラのような輝きが在った。
 或る時、宏一が「会社が残業続きですごく疲れている」と漏らすと、次のデートの日、最初に入った喫茶店で向かい合った美千代は、直ぐにバッグから小さな瓶を取り出した。
「このアロマオイルは疲れにとっても効くんですよ」
そう言って宏一の左手の甲にオイルを擦り込んだ。
「こうやってハンドマッサージをすると疲れが取れるんです。さあ、其方の手もお出しになって・・・」
宏一は美千代の優しさに胸の中がじい~んと熱くなった。
「どうぞ、お持ち帰りになって自由にお試しになって下さい」
 それから二人の会話は弾んだ。
「小学校の先生という貴女の仕事も結構大変なんじゃないですか?中学や高校と違って小学校の先生は担任を持つと全教科を教えなきゃならないし、躾や挨拶や行儀なども教えなきゃいけない」
「そうですね。特に低学年のクラスを受け持ちますと、勉強以前のところから始めなければならないことが多くありますわね」
「知育、徳育、体育などというレベルには遠く及ばない話でしょうね、きっと・・・」
「はい。掃除の仕方や食事の仕方、或は、服の着替え方などを学校で指導しなければならない子供が増えているのは事実ですね」
「食事の仕方まで教えるのですか?」
「はい。箸の持ち方が出来ない子や好き嫌いの多い子も居ますから、特に、箸はきちんと持てるようになるまで結構時間がかかりますので、根気強く指導しなければなりませんわ」
小学校の先生の役割は生徒に勉強を教えるだけではなかった。特に、六歳から十二歳くらいの間は人格形成に大きな影響を及ぼす時期である。子供達の個性を伸ばし人間性豊かに育つように指導するのも先生の大きな役目だった。
「苛めなどの問題が起きた時は大変でしょうね」
「そう言う問題は解決には大変時間がかかりますし、失敗すると取り返しがつかない状況になります。他の先生にも助けて貰って、漸く問題を解決出来た時にはほっと肩の荷が降ります」
「先生の仕事は世間の人が想像する以上に大変なんですね」
「小学校の教師というのは一人で一つの学級を任されますので、クラスの子供に対してはひときわ強く愛着を持ちます。ですから、小さな問題であっても解決出来た時の喜びは口では簡単には表せません。クラスの子たちが一つに纏った時、運動会や学芸会、卒業式などでは特に感動するんです。真実に、教師をやっていて良かったなあ、ってしみじみ思います」
それから、最後に美千代はこう言って話を締めくくった。
「教師は笑顔を消してはいけないんです。子供たちはそういうことを敏感に感じ取ります。教師の顔から笑顔が消えると、子供たちが寄って来なくなります。彼等の態度は普段と変わらなくても遠巻きにしているだけで自分からは寄って来ないんです。そうなると教師と子供たちの関係は悪くなって行くばかりです」
「なるほど、それは解るような気がします」
「それともう一つ・・・毎日毎日、子供たちに教えたり指導したりしていると、私たちは自分の気付かぬうちに、上から目線になっているんです。これが子供達だけでなく保護者の方に対しても、世間の皆さんに対しても、ついつい出てしまうんですね。十分に心しなければならないことだと肝に銘じてはいるのですが・・・」
何事にも前向きに対処しようとする美千代の姿に、宏一は凛とした気構えと真摯さを感じた。
「ご免なさいね、自分の仕事のことばかり話しちゃって・・・真実にごめんなさい」
それから、美千代が躊躇いがちに宏一に訊ねた。
「あのぉ、今日の夕食は何処かに予約を入れていらっしゃいます?」
「いえ、特には未だ・・・」
「そうですか。なら、宜しければ私の知っているお店に付き合って頂けませんか?」
「ええ、それは一向に構いませんが」
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