第44話 「そうですか、愈々、お帰りになるのですか」 

文字数 2,710文字

 東京から単身赴任している高井健二が毎日の夕食を京のおばんざい屋「あだち」で摂るようになってから丸四年になろうとする三月中旬、その時刻に「あだち」の客は高井一人だった。閉店間際の午後九時過ぎ、彼は先程から店の外の雨音を聞きながら、頭の中で言葉を捜していた。女将の信子は高井のいつもの「おまかせ」惣菜を見繕ってお盆の上に並べていた。
 高井が出されているお通しを肴に熱い燗酒を一口啜った時、信子が料理の載ったお盆をカウンターの上に置いて密やかに微笑いかけた。
信子はじっと高井の眼を覗き込みながら不安げに問いかけた。
「何か、心配事が有るみたいですね、高井さん」
柔らかい穏やかな口調であった。
「ええ」
高井は深く息を吸い込んだ。
「実は・・・今度、東京へ帰ることになったんです、配置換えで。本社勤務を命じられました」
「そう、ですか・・・」
信子はそれっ切り黙って俯いた。
それから、高井の視線を避けるように身体を回して、くるりと背を向けた。信子の滑らかな肩の線が何かを耐えるように、一瞬、震えた。
信子の胸に高井が初めて「あだち」にやって来た日のことが哀切の思いと共に鮮明に蘇えった。

 四年前の四月初め、一人の男が店に入って来た。黒くて太い眉、切れ長の鋭い眼、筋の通った鼻梁、百八十センチを超える長身痩躯、白いワイシャツにきりりと結ばれた濃紺のネクタイ、背筋をピンと伸ばして大股で歩く、歳の頃は四十歳くらいの如何にもビジネスマン然とした男だった。
「おこしやす」
女将の信子が愛嬌良い笑顔で迎え入れた。彼女は三十歳中半、嶋のお召に西陣帯を締めてその上に白い割烹着を羽織っていた。零れる笑顔に気品が在った。
「どうぞ、此方へ」
信子が案内したのはカウンターの一番奥の席だった。彼は椅子に腰かけながら、店内に掲げられたメニューを眺め、「おまかせ」を注文した。
「あっ、それから、熱燗二本も一緒に・・・」
「はい」
信子は急いでてきぱきと品を揃え、酒の癇を始めた。
 男は、次の日も、その次の日も、独りでやって来た。その間、男は料理を注文する以外に口を利くことはなかった。男は寡黙だった。黙々と独りで食べ、独りで飲んで、一時間ほどで帰って行った。
そして、四日目の夜に、信子に、躊躇いがちに、一つの頼み事をした。
「明日から毎晩、此方で晩飯を食べさせて頂けないでしょうか?」
「はいっ?」
「三日間通わせて頂きまして、大変に美味しかったものですから、もし可能ならばお世話になりたいと・・・」
「そうですか、有難うございます。解りました。うちで宜しければ承ります」
男は近くに在る大企業の技師で名を高井健二と言った。彼は長い身体を九十度に折り曲げて礼を言った。
それから高井は毎晩八時前後にやって来て晩酌と夕食を愉しみ、きっちり一時間で帰って行った。相変わらず、聞かれたことに答える以外には必要最小限のことしか話さず、独りで寡黙に時を過ごすのだった。そうかと言って、不機嫌であったり不愉快であったりという風ではなく、一日の仕事を終えて穏やかにゆっくりと寛いでいるのは信子の眼にも明らかだった。
高井は無口だったが律儀だった。席は何時も一番奥のカウンターの隅で他の客の邪魔にならないようにひっそりと腰かけたし、食べた後の食器類はきちんとカウンターに一つずつ戻した。お代は毎日キチンと殆ど釣銭の要らないようにして支払った。

 暫くして、高井の方へ振り向いた信子の口元が微かにヒクついていた。
「そうですか、愈々、お帰りになるのですか・・・」
高井はぬるくなった酒を猪口に移して一気に飲み乾した。苦い舌触りだった。
唐突に信子が聞いて来た。
「ねえ、あの日のことを覚えていますか?太陽が丘の運動公園で話した時のことを」
「ええ。息子さんの信吾君が自転車に乗る練習を手伝いました」
 高井は走りながら自転車の後ろを押した。それは信子が驚くほどのスピードだった。
今までに無いスピードで押された信吾は必死で懸命にペダルを漕いだ。はらはらしながら見守る信子を気に懸ける風も無く、高井は手を離さずに自転車を押し続けた。
そうして、何回目かに気が付くと、信吾は独りで乗ることが出来ていた。乗り始めにペダルを漕ぎ出すコツも高井は教えた。三十分も経つと信吾は一人で乗れるようになっていた。
「有難うございます。今日まで何回か練習に来ていたんですが、なかなか思うように行かなくて・・・」
「まあ、これでもう少し練習すれば、道路でも乗れるようになるでしょう」
高井はそう言って信吾の頭を軽く撫でた。顔には口元を少し歪めた微笑が覗いて居た。
それは高井が信子に対して初めて見せた打ち解けた姿だった。
「やっぱり女親では駄目なんですねぇ・・・」
「ご主人は・・・?」
「亡くなりました、三年前に、癌で・・・」
「えっ!」
高井は暫く絶句した。言葉が出て来ない様子が信子にもありありと見て取れた。
「或る日、突然に食べ物が呑み込めなくなって・・・嘔吐を繰り返して・・・気が付けば食道の半分が既に塞がって居て・・・診断の結果は末期の進行性の食道癌でした。最後は胃瘻までして・・・十カ月余りの闘病の末に呆気無く死にました」
頭を垂れて信子の話を聴いていた高井が、徐に謝った。 
「済みません、知らなかったものですから・・・軽はずみに余計なことを聞いて、あなたの心の中に土足で踏み込んでしまいました。許して下さい」
それは、心から信子の哀しみと痛みを思いやるもの言いだった。切れ長の鋭い眼が包み込むような優しい眼差しで信子を見詰めた。
信子は、店にやって来る寡黙で気難しそうな高井とは異なる別の一面を見た気がした。
この人は懐の深い優しい人なんだわ、きっと・・・信子はこれまでに無い親しみを高井に感じた。

「わたし、あの時、あなたに救われたんです」
「えっ?」
あの後、二人は、信子の夫が亡くなったことに関して、こんな会話を交わしたのであった。
「私がいけなかったんです。夫があれほど悪くなるまで気付かなかった私が、いけなかったんです。家事と育児と店の仕事の忙しさに感けて、夫とちゃんと向き合っていなかった私の所為で、夫は・・・」
「女将さん、そんな風に自分を責めてはいけませんよ。運命です、寿命なんですよ。一人一人の個人ではどうしようもないのが運命というものです。そんな風に自分を責めて居てもご主人は決して喜んでは居られませんよ。その思いはご主人が残された大事な信吾君に注がれる方が良いんじゃないかと自分は思いますが・・・」
「わたしはあの時、ふっと身体の力が抜けて気持が楽になったんです。夫を死なせてしまった責務の呪縛から解き放たれたんです。私はあなたに救われたんです」
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