第90話 夫が麗子を愛したことは無かったのだ! 

文字数 1,357文字

 沢本が碁を打ちにやって来た。
由紀江がリビングへ入ろうとした時、中から訊くとも無く聞こえて来た低い話し声が思わず由紀江を立ち止まらせた。
「どうだ?あいつは出来そうかね?」
「あいつ?ああ、中条のことか。ま、鍛えればものになるんじゃないか。うちの人材開発室に訊いてみたんだが、知識も能力もかなりレベルは高いと言うし、な。ただ、何しろ高慢でいかんということだった。あれが取れないうちは駄目だろうな。人間の性格というものはそう簡単には変わらないだろうし・・・」
「性格は変わらなくても、考え方や行動は直ぐにでも変えられるだろう。彼も一年もの間、辛酸を舐めて少しは成長しただろうし、な」
「だが、人間は経験したことしか身につかないし、痛い目を見ないと解からんと言うぞ。まあ、ゼロからではなくマイナスから出発出来るかどうかだな。人間、知っていても出来ないことは山ほど有るからな」
「なるほど・・・」
「しかし、お前も手の込んだことをするなあ、直接我社へ紹介すればよいものを、わざわざヘッド・ハンティング会社を通さすなんて・・・何か思惑でもあったのか?」
「うん、まあな。あいつとは幼稚園から高校まで一緒だったんだ、だから彼のことは良く知っているんだよ。あいつはプライドが高くて自惚れが強く、面子に拘って気位が高いから、俺が直接関わったのでは意地を張って素直には話に乗らなかっただろう。それに、あれだけ頭脳明晰の秀才はそうざらには居ないから、このまま腐らせるには勿体無い。お前の会社で大いに鍛えられれば将来有能な人材になり得るんじゃないかと思って、な」」
「それはそうと、彼の奥さんも前から知っていたんだって?」
沢本が冗談半分に揶揄するように訊いた。
「彼女は高校の先輩の妹で、もう随分前のことだが、あるピアノコンサートの会場で紹介されたんだ。その後、二度ほど逢って話したことがあるんだが、直ぐに、これはいかんと思った、俺には合わんと思ったんだ。だからそれっ切りだ。あの手の女性は、世の中の男は皆自分に恋し、跪くものと思っている、そういう気質を持っている女なんだな、彼女は」
 由紀江の全身の血が歓呼した。
夫は麗子を愛しはしなかった、彼は麗子を愛したことは無かったのだ。誠実な人柄の隆史の言葉に嘘は無いだろう、彼のことを信じよう!
由紀江のこれまでの悶々とした憂さは一気に霧消した。
「まあ、そんな訳で・・・由紀江に頼まれたから、中条の奥さんが彼女の学生時代の親しい友人だったということだから、それで、お前に頼んだ次第だ」
「そんな苦心と気遣いがあいつに解かるのかね、あの高慢な中条に。然し、お前も大した奴だな。自分の強みばかりをひけらかす中条みたいな奴も居れば、お前のように人の痛みを解かって陰で手助けしようとする人間も居る。俺も勉強になったよ」
「否々、女房に頼まれたからだよ。由紀江に頼まれなければ、中条のことを知っても何もしなかっただろうと思う。俺はそんな大した人間じゃないよ」
由紀江は幸福感で胸が一杯になった。抑えようの無い微笑が湧き上がって来る。リビングのドアをノックする手が弾んだ。
 由紀江はワゴンを押しながら、片手でそっと胸の下を押さえた。新しい生命を温かく生き生きと掌に感じて、今夜、そのことを隆史に知らせよう、と嬉々として、思った。
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