第106話 それは爽やかであり小気味良い別れであった

文字数 1,635文字

 社長の高之が昼食を摂って社長室に戻ると、専務の秋田が忙し気に入って来た。秋田は向かい合って座るなり、性急に話し出した。
「実はえらいことになりました。奥さんが弁護士の差し金で、優香さんのことを興信所に調査の依頼をしはったようです」
「ほんまかいな?」
「ああいう調査というのは、私も憶えがありますけど、凄いもんでっせ。女の住居は勿論のこと、何月何日、何時から何時まで、何処で二人が逢うていたとか、まあ、虱潰しに良ぅ調べ上げるもんですわ」
「綾乃はそんなに思い詰めているのかいな」
「まあ、そろそろ、潮の引き時と違いますか?」
「そうかも知れんなぁ・・・近頃の優香はちょっと扱い難くなって来たからなぁ・・・」
「有名なファッション・デザイナーの事務所にも勤めはったし、週一回の料理教室ももう直ぐ終わりやし、優香はんも独り立ちを懸命に考えてはるのと違いますか?」
「そうやな、彼女はもともと着物デザイナーを望んでいたんやけど、儂がその夢を潰してしもうたからなぁ。もう一遍、やる気を起こして居るんやわなぁ・・・」
「けど、別れるとなると、手を焼くことになりますなぁ」
「ちょっと惜しい気もするけどなぁ・・・」

 数日後、優香のマンションで専務の秋田が彼女と向き合っていた。
「・・・先程から言っているように、奥さんが興信所を頼んであんたのことを調べさせて居はります。焼き餅だけは理性の外やさかい、もし見つかったら豪いことになります。それで、此処は危険やから引っ越して貰えたらと・・・」
「そんなこと急に言われても、犬の子や猫の子を移すようにはいかないわ。私だって、一応、此処で生活の根をおろして居るのですから・・・」
「それは、もう、良ぅ解かっとります。なにも今日という話ではおへん。儂の知合いのマンションが一週間ほどしたら空きますので、ちゃんと手配してあります」
「・・・・・」
「あんたはんは身柄一つで行って貰うたら、荷物も何もかも儂が運ばせて貰います」
「あの人がそう言ったのですね?」
「此処のところは、まあ、社長の辛い立場も解ってあげて欲しいんですわ。社長も、どんなことをしても、あんたはんと別れとうないさかい、あれこれ、苦労してはる訳です」
「解かったわ」
優香はきっぱりと答えた。
「えっ?ほな・・・出てくれはるんですか?」
「色々とお世話になりました」
「承知して呉れはるんですな?」
「そうしないと、専務さんが困るんでしょう?・・・あの人も・・・」
「へぇ、まあ・・・おおきに。ほな、約束しましたで」
秋田専務はそそくさと座を立った。
「お邪魔しましたな、ほな、さいなら」
 優香は暫く部屋の中を見回していたが、いきなり、クローゼットから小さなボストンバッグを持ち出すと、その中へ下着類と日用品を詰め込んだ。それから、部屋の中を見回して微かに笑うと、ドアを開けて外へ出て行った。物陰から現れた秋田が不審そうに優香の後姿を見送った。
 
 三日後、秋田が優香の部屋へ入ると、鍵束がきちんとテーブルの上に置いて在った。書置きは何もなった。が、彼女はこの部屋を出る時、一通のメールを高之に送っていた。
「お別れします。色々とお世話になりました・・・優香」
秋田は呆れたように辺りを見回した。
「三面鏡にテーブル、ベッド・・・高そうな絵も在るがな。みんな置いて行ったんかいなぁ」
彼が洋服ダンスを開くと、色とりどりの衣装がズラリと架かっていた。
「仰山、買って貰うて・・・未練無いのかいなぁ・・・今時の若い者はあっさりしたもんやなぁ」
それは、秋田にとって、むしろ爽やかであり、小気味良くさえあった。

 三カ月後、羽田空港の国際線ロビーには、アメリカへ旅立つ星野英恵を見送る中野優香の姿が在った。
「先生、お気をつけて・・・」
深く腰をかがめて頭を下げた。
「行ってらっしゃいませ」
過去から一歩を踏み出し、分相応な身に合った生き方を地道に歩み始めた優香には、最早、何の衒いも虚勢も無かった。
ジェット機が滑走路を離陸し、東の空へ飛び立って行った。
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