第48話 「今から私を抱いてよ、ね、抱いてよ、直ぐに!」 

文字数 1,090文字

 日曜日の午後、愛理の携帯にメールが届いた。
「親方の言い付けで旅修行に出ることになった。午後七時に駅東の遊歩道で待っている」
愛理は夕暮れになって時間の来るのを待ちかねたように遊歩道へ急いだ。
駅東のロータリーから川に沿って続く遊歩道には夏草のむせかえるような匂いが立ち込めていた。その先に黒い影が立っていた。
「修二さん」
愛理は名前を呼んで影に近づいて行った。
「悪いな、こんな所へ呼び出して」
修二の声は低くて優しげだった。
「ねえ、どうしたの?何があったの?」
「メールに書いた通りだよ」
「旅修行って、何処へ行くの?ちゃんと話してよ、ね」
愛理は修二の上着の裾を掴んだ。何か言わないと此の侭修二が何処かへ消えてしまい、二度と自分の処へは戻って来ない気がした。
「ねえ、以前、約束したじゃない」
「約束?」
「そうよ。二人の心が互いに真実に求め合うまで、それは大事に取っておこう、って」
修二がまじまじと愛理の顔を凝視した。
「今から私を抱いてよ、ね、抱いてよ、直ぐに!」
事が終わった後、愛理は修二のマンションの浴槽の中で、自分が女に成ったことを感じた。部屋へ戻ると修二は壁に凭れて何かを考えている風だった。
「あなたは何処で生まれたの?」
「熊本だよ」
「熊本の何処?」
「八代だ。晩白柚と塩トマトと、それから、辛子蓮根と日奈久竹輪で有名な町だよ」
「晩白柚って?」
「柑橘類では最大クラスで、直径は凡そ二十五センチ、重い物は三十キロを超える、ギネスにも認定されている代物だ。香りも豊かで果汁がたっぷりなので贈答品としても喜ばれているよ」
「私は辛子蓮根が大好きなの。しゃきっとした蓮根の歯触りと辛子味噌が絶妙の味を醸し出すのね」
其処まで話した時、突然、修二の顔が近付いて愛理の視界を遮った。
キスを繰り返しながら修二が愛理の耳元で囁いた。
「旅から帰ったら、俺の田舎へ行こう。両親に俺の嫁として引き合わせるし、晩白柚も辛子蓮根もたっぷりと食わせてやるよ、な」
「ほんとうに?待って居ても良いのね。約束よ」
「ああ、大丈夫だよ」
「わたし、一生あなたに従いて行くわ、真実よ!」
二人はまた唇を重ね合わせた。
修二が東京へ旅立つ前、二人は連れ立って幸徳神社へお詣りした。
「この人が早く立派な板前さんになって、きっと私の前に戻って来ますように」
愛理はそう言って長い間、手を合わせた。
「包丁一本を晒に巻いて旅へ出るのも板場の修業だ。腕を磨いて戻って来たら、必ずお前と所帯を持つから、それまで待って居てくれよ、な、愛理」
意地と恋とを包丁に賭けて修二は本尊に手を合わせて瞑目し続けた。
程無くして、藤田修二は旅修行に出て町からいなくなった。
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