第78話 一色彩は齢八十歳の老女優である

文字数 2,214文字

 一色彩は齢八十歳の老女優であるが、彼女は週に一、二度、都心に在る老舗ホテルのレストランで昼食を摂るのを習わしにしている。このホテルのレストランは何処もが舌に心地良く馴染んで美味であり、彼女はその日の気分の赴くままにレストランを選んで入って行く。今日選んだのはランチにフレンチのコースを提供するダイニングレストラン「カンフォーラ」だった。そこはフレンチでありながら最も果敢に時の流れに抗し歴史と伝統の重みを醸しているが故に、今も彼女のお気に入りのレストランなのであった。
 時刻は午後一時を少し回ったところで、彼女は昼食時の混雑と喧騒が一段落する頃合いを見計らって「カンフォーラ」にやって来た。案内されたのは窓際の、カーテンを通して柔らかい陽光が背後から差し込む二人掛けのテーブル席であった。
 一色彩は茶褐色のサングラスで顔を隠し、黒っぽいスカーフをきっちりと首に巻いていつも独りで昼食を摂る。正体に気付かれることは殆ど無い。それが気に入っていた。
若い頃からの長年の忠実なファンに出逢うと、決まって、訊ねられることが有る。
「もう映画やテレビドラマには出ないのですか?」
「勿論、良いお話があれば歓んで出演するわよ」
然し、彼女はそう言った会話をすることが幾分煩わしかったし、また、自分では、恐らく二度と映画にカムバックすることはあるまい、という気にもなっているのだった。
今でも時に、出演の依頼は来るのだが、それは大抵、淋しい老母や悪趣味な老家政婦や車椅子に座った老婦人などという老け役ばかり、或は、ありきたりのシチュエーションでお定まりの展開をするミステリーもので、どれもこれもが陳腐なものばかり。若き日の思い出を蹂躙する覚悟が無ければ、とてもそんな映画やドラマに出演することは出来ない。
 彼女はウエイターを招き寄せて、料理とワインを注文した。
明るいレストランの中を身軽に動き回っている若いウエイターやウエイトレスの姿を眺めていると、もはや老いを跳ね返すことは出来ない、と初めて意識した時のことが思い出された。肉体は、何時かは凝結してしまう。肌には皺が生じカサカサになって、厚塗りの白粉や紅で隠さないことには亀の首のようになってしまう。それを意識した瞬間の、肌を吊り上げる整形手術も美顔術ももはや無益だと悟った瞬間の、なんと恐ろしかったことか。だが、その時、これは多分自然の摂理なのだろう、人が死を受け容れ易くするために自然はその肉体を老いさせるのかも知れない、と思ったことも彼女はよく憶えている。
 一色彩は最近、記者たちとかマネージャーとか、数少ない取り巻き連中とか、極く親しい友人たちとかと、死について語り合うことが多くなった。悲しいのは、自分の死亡記事が、昭和三十年代、日本映画の黄金時代に芸能記者向けに流された作りものの情報をない交ぜにした、真実からは程遠いエピソードで固められるに相違無いことであった。
「そんな誤りを正す為にも回想録を執筆したらどうなの?」
「そうね。でも、わたし、あの手の本は好きになれないのよ」
彼女は、同じように年老いた女優たちが発表する一連の回想録、悪趣味一歩手前の自己憐憫と虚飾のノスタルジーに満ち満ちたあの手の自伝が好きになれないのだった。
 一番真実に近い記録は、やはり彼女が昔出演した映画自体だと言って良いだろう。
それは今も、偶に、テレビの深夜映画劇場等に登場して来るのだが、それらの映画に登場する彼女は永遠の若さに包まれている。肌は透き通るように白く、総天然色が織りなす華やかな色相の中で眼はキラキラと輝き光っている。あの頃共演したハンサムな俳優たちの殆どは映画界から消えてしまって、もはや皆、彼女が初めて会った時のあの若者たちではない。鬼籍に入ってしまった俳優たちも何人かは居る。特に、長年のゴールデンコンビであったスーパースター石黒裕一が五十代の若さで永眠した時には涙が滂沱として溢れ、ああ、これで光り輝いていた私たちの時代も終わったのだわ、としみじみ思ったものだった。時間とテレビに蚕食されて消えてしまった映画会社のスタジオも幾つか有る。セットも三十年前に壊されてしまった。
ワインと食事が運ばれて来て、ウエイトレスが食べ易い位置に一つずつ並べてくれた。こういう気配りも一色彩のお気に入りの一つである。
 
 ややあって、ふと彼女が顔を上げると、顔見知りの人物が数人の男女に囲まれるようにしてドアから入って来るところだった。その人物は山高帽を被っている所為で、実際の身長よりも高く見えた。窓から入る初夏の陽光を浴びて顔の色艶も良い。だが、漆黒のサングラスをかけているその老映画監督は、最近、両方の眼が相当に悪くなっているらしい、そんな記事を彼女は何かで読んだ記憶が有った。目下、近くの文化博物館で彼の映画を回顧する催しが開かれており、旧作が十本ほど上映されている、という記事も彼女は何かの雑誌で読んだことがあった。
 今、彼の隣には、テープレコーダーを持った聡明そうな若い女性が付き添っていた。直ぐに三本の照明燈に灯が入り、カメラのフラッシュがたかれて、インタビューの準備が整った。その光景を眺めている内に一色彩は、若かりし頃の自分の裸体を見た数少ない現存者の一人がその監督であることを思い出した。監督の名は桂木遼太郎、まるで俳優の芸名のようだわ、と初めてその名を聴いた時、彼女は思ったものだった。
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