第70話 茉莉、突発性難聴を患う

文字数 2,489文字

 大塚茉莉は四歳の頃から教室に通ってピアノを習い、年に二回ほどの発表会では親たちの前で演奏したりした。小学一年生になって五線紙に自分で書いた曲を茉莉が弾いた時には、母親も教室の先生も驚き感嘆した。中学生になった茉莉はビッグ・バンド部に入ってベースを担当し、高校へ進学してからもビッグ・バンドの部活に熱中した。高校を卒業する時、茉莉はひたすらピアニストになることを考えていたので、東京の音楽大学に応募した。将来は必ずピアニストになるんだ、茉莉はそう心に決めて高校を巣立った。幸いにも合格することが出来て大学の女子寮にも入ることを許された。
 音大の三年生が終わる三月の初めに、茉莉はピアノ学科の教授陣からその年度の優秀ピアニストに選ばれ作曲賞も受けた。更に、国際コンペティションでは優秀演奏者賞を受賞した。漸く、ピアニストとしてのプロの道への微かな光が見え始めたのだった。
 
 だが、人生一寸先は闇だった。
或る朝、目覚めた茉莉は強い眩暈に襲われてベッドに蹲った。数秒、否、数分経って眩暈は治まったが、今度は耳鳴りがして耳が閉ざされた感じがやって来た。同時に吐き気を催して茉莉は慌ててトイレに駆け込み、其処で激しく嘔吐した。
漸く、耳鳴りや耳閉感や吐き気が治まってトイレから出て来た茉莉は、朝の習慣でテレビのスウィッチを押した。が、いつもと違って音声が聞き取り難い。最初は状況が良く解からなかった。やけに聞き取り難いのは何故だ?然し、次第に落ち着きを取り戻した茉莉は、左耳が良く聞こえないことに気付いた。右耳は普通に聞こえたので、右耳を抑えて左耳だけで聞いてみた。茉莉は驚愕した。まるで聞こえなかった。茉莉の身体に戦慄が走った。耳が聞こえない!茉莉の顔が蒼白になった。ピアニストになろうというのに耳が聞こえない。茉莉の心は動顚した。
茉莉は取るものも取りあえず慌てて総合病院の耳鼻咽喉科へ駆け込んだ。
問診の後、聴力検査、レントゲン撮影、MRI検査、更にABLBテスト、SISIテスト、自記オージオメトリー、血液検査が立て続けに行われた。
診断の結果を医師は努めて冷静を装って言った。
「検査の結果を総合判断すると、内耳性の感音性難聴だと思われます。突発性難聴ですね」
「突発性難聴、ですか?」
「ええ、突発的に起きる原因不明の難聴です」
「先生、お願いです、何とかして治して下さい。ピアノは私の人生なんです。何でもします、お願いですから聞こえるようにして下さい」
「解かりました。全力を尽くしましょう。全力は尽くしますが、覚悟はしておいて下さい。完治するかどうかは何とも言えませんから」
安静に治療する方が良いと言うことで、茉莉は一週間の入院を余儀なくされた。
だが、一週間経っても茉莉の左耳の聴力は殆ど回復しなかった。そして、半月後、茉莉は漸く理解した。難聴が高度の場合、初期に強い眩暈を伴ったものは聴力予後が極めて悪いこと、発症して二週間を過ぎると治癒の確率が大幅に低下することを!
 茉莉は茫然自失した。プロのピアニストを目指す自分の耳が機能しない、聞こえない。これほどの致命傷は無かった。昨日まで、二十一歳の青春の先に続いて在ると信じて疑わなかった明日が突然闇の中で消滅してしまった現実を、自分の中へ受入れることが出来なかった。もう少しで手の届く輝く未来がつい其処に在ったのに!・・・
茉莉は何をする気にもなれず、何も手につかず、誰にも会わず、鬱々と日を過ごした。
築きかけていた自らのアイデンティティが音を立てて崩れて行く絶望感とどうすることも出来ない無力感の中で、一瞬たりともその感情から抜け出すことが出来ず、茉莉は絶望の奥底で懊悩した。
茉莉は七日七晩泣き続けた。心身共に疲れ切って自失した茉莉は実家の母親に電話をして事情と状況を話した。
 話を聞いた母親は、まあ!と言った切り電話の向こうで絶句した。が、やがて、しっかりした口調で茉莉に命じるように言った。
「今から直ぐに帰ってらっしゃい。何処へも寄らずに真直ぐに帰って来るのよ、良いわね」
聞いた茉莉は、わあ~っ、とその場に泣き崩れた。
 だが、茉莉が実家に戻っても心の傷が癒える訳ではなかった。
茉莉にはもう、こうしたい、ああしよう、という前を向いた意思はなかった。茫然自失、無気力に何をするでもなく部屋に引き篭もって日がな一日、無為に時間を過ごした。毎日毎日、来る日も来る日も、抜け殻の状態で日々を過ごした。茉莉は悲しみに打ちひしがれ、何をする気にもなれず、何をしても心は晴れなかった。茉莉はただただ哀しかった。茉莉の胸はいつも堪えられない痛みに疼いていた。乾いて干上がったり、涙が泳いでぐしょぐしょに濡れたりしていた。母親はそんな茉莉を心の底から心配した。
 
 半月ほど経った五月晴れの午後に、母親が茉莉の部屋をノックした。
「茉莉、お客様よ、出てらっしゃい」
茉莉は常に抑鬱神経症や不安神経症に喘いでいたので人に逢うのを億劫がった。
「隣の謙ちゃんよ。さあ、早くいらっしゃい」
隣の謙ちゃん、と聞いて、茉莉の胸に仄かな安堵感が芽生えた。茉莉と謙一は幼友達だった。
高田謙一は幼くして父親を亡くし、気丈な母親の女手一つで厳しく育てられた。彼は高校を卒業後、夜間大学へ通いながら、地元の印刻堂へ就職して印章彫刻師を目指した。一人前になるのに十年を要すると言われる厳しい職人の道だった。
玄関口に顔を出した茉莉に、謙一が、やあ、という笑顔を見せた。
「いらっしゃい、謙ちゃん。久し振りね」
通された茉莉の部屋で二人は暫く、懐かしい昔話を語らい合った。修学旅行でワインを呑んで酔っ払ったこと、大きなキャンプファイア―を囲んでフォークダンスを踊った文化祭のこと、出しもしない年賀状の返信が互いの家に届いたこと等々を微笑みながら話し続けた。
 だが、二人の会話は余り弾まなかった。
「お母さんから先日電話を貰ったんだよ、茉莉が帰って来ていますから遊びに来てやって下さい、って」
「そう・・・」
「お前のことは粗方は聞いたよ。大変だったんだなあ」
暫く、沈黙が流れた。
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