第39話 二人は「お恵」「耕ちゃん」と呼び合う仲良しだった。 

文字数 2,631文字

「六時から予約の沢木ですが」
彼は今日、久し振りに逢った恵子と此処で夕食を共にする約束を取り交わした。
沢木と恵子は同い歳だった。
恵子の家は沢木の家の右隣で、両親が二人とも学校の先生をしていて昼間は不在だったので、子供の頃、恵子はよく沢木の家へ遊びに来た。半ば沢木の家の子供のような格好で遊びに興じ、両親の帰りが遅い日には夕食を一緒に食べたりもした。二人は「お恵」「耕ちゃん」と呼び合う仲良しだった。
小学校から高校まで同じ学校に通った二人は思春期のお互いを詳らかに見合って来たが、高校卒業と同時に、恵子は現役で合格した国立大学へ通学する為に、家を出て東京へと旅立って行ったし、沢木は自宅から通学出来る国立大学へ通って、二人が顔を合わせるのは、恵子が夏休みなどで長期間帰省した折だけとなった。が、それでも、逢えば二人は時間の過ぎるのも忘れて話し込んだし、街へ出て食事をしたり、酒を飲んだりもした。恵子は益々自信に満ちて颯爽としていたし、その存在感は同世代の女の娘達とは比較に値せぬほど群を抜いていた。
恵子は東京の国立大学経営学部を卒業して六年、公認会計士の資格を取って今は都内の有名な監査法人に在籍している。仕事が忙しいと言ってもう三年以上も実家に帰って来ていなかった。

「お待たせしちゃって、ご免なさい」
歯切れ良く言った恵子は、沢木が指差した、丸テーブルの、夜景がよく見渡せる斜め横の席に腰を下ろした。
ウエイトレスが飲み物の注文を取りに来た。料理の方は既にフレンチ懐石コースを予約してある。恵子は白ワインを注文し、沢木も同じものを頼んだ。
最初に運ばれて来た食前酒で二人は先ず、グラスを合わせた。
「乾杯!」
「ああ、美味しい」
恵子の表情が少し緩んで、窓の外の夜景に眼を上げた。
ワインとオードブルがテーブルに運ばれて来て、二人のディナーが始まった。
「私は輝きを失わない為に自分を磨いて来たし、これからも磨き続けるわよ。ひたむきに打ち込んで没頭し、自分を高めることが出来る何かを持っていないと、オーラは出ないわ」
「それが仕事であっても良いということか?」
「そうね。仕事はそれに携わる人の人間を造るわ。仕事は人間修養の道場みたいなものよ。際限無く深く、奥行きも広くて、必死に立向かわないと必ずしっぺ返しが来る。挑んで行く姿勢や闘う心や諦めない粘り強さ、或いは、成功の高揚感や失敗の挫折感、立ち上がる不屈の精神、その他、人が生きて行く上で強靭に身につけていかなければならないものが一杯詰まっているのが仕事なのよ」
沢木は、恵子の有無を言わせぬ断定的な話し振りに、少し戸惑った。恵子には似つかわしくない物言いだと思った。
「勿論、エステや美容などで外面を磨くことも怠り無くやっているわよ」
恵子はやや砕けた口調で付け足した。
 だが、ワインを飲み、美味なコース料理を賞味しながらも、二人の会話は余り弾まなかった。先程の物言いといい、又、淋しそうで何処と無く辛そうな表情が垣間見える恵子の様子に、沢木は心を砕き、通り一遍の世間話しか口に出来なかった。仕事の話になると恵子は饒舌になり、少し気持ちも和らぐようであった。
沢木には彼女が、言葉とは裏腹に、とても疲れてやつれているように見えた。頬が少しこけ、目元もやや落込んで、元気だとは到底言えない顔つきである。綺麗に化粧を施して隠してはいるが、肌も少し荒れているように見える。沢木にはこのまま放って置けない気がした。
「お恵、どうしたんだ?何で今頃、中途半端なこんな時期に帰って来たんだ?」
沢木はたずねた。
「別に、どうもしないわよ。来月から企業の本決算業務で忙しくなるから、一寸、英気を養いに帰って来ただけよ」
「何か気懸かりなことでも有るんじゃないのか?」
今はそういう話はしたくないの、とでも言いたげに恵子は軽く手を振って、和牛ステーキにナイフを入れた。
店内がかなり混み合って来た。キャリアウーマンタイプの若い女性達、中年の夫婦連れ、男女入り混じったビジネスマンとOLの一団等々が、空いていた予約席をどんどん埋めていった。

 ふと、恵子がフォークとナイフを置き、テーブルの下で手を組んで静かに言った。
「耕ちゃんだから、やっぱり話しちゃうわ。本当はね、私、何もかも順調って訳じゃないの」 
彼女の大きな黒い眼には、最悪の事態を予期して身構えているような表情が浮かんでいた。
「私ね、中絶手術をしたの」
恵子は言った。
「一ヶ月前に・・・」
沢木は思わず、身を乗り出していた。
「ううん、どうってこと無かったわ」
騒がしいレストランの中で、その声はかすれるように聞こえた。
「簡単なことなの。事実簡単だったし」
「両親には話したのか?」
「ううん。だって、これは私自身の問題だもの。自分ひとりで責任を取るのが当然だったのよ。それに、三十歳前のいい大人が親に話すことじゃないわ」
恵子は、ふっと一息吐いて、ワインを一口啜った。
「私、最後まで他人の力は借りなかったわ、全部一人で処理したの。そして、彼とも別れたわ」
恵子は顧問先である会社の妻子有る課長と恋に陥り、愛し合い、そして、妊娠したのだった。会社や事務所の上司や同僚或いは相手の家族に知られてはいけないという秘かな忍び逢いが、二人の恋を一途なものにしていった。二人は次第に激しく求め合うようになった。しかし、時を経て二人の関係は惰性化して行った。最初の頃は、逢う度に新鮮さもありときめきもあったが、次第に、ただ漫然と会い、食事をして酒を飲み、そして、身体を重ね合う日常の中へと埋没して行った。恵子はそんな二人の関係に気を揉んだが、次第に、所詮、世間的には不倫関係だという思いを抱くようになり、相手の家庭を壊す気は毛頭無く、又、仕事を犠牲にしてまで未婚の母を貫く勇気も持てなくて、悩んだ挙句に、中絶と別離を決断したのだった。
中絶手術のあと、高層マンションの窓から煌く東京の夜景を一望しながら、恵子は一晩中泣きに泣いたと言う。
「どうしてあんなに涙が溢れたのか、自分でもよく解らないのだけれど、泣き明かして朝になったら、憑き物が落ちたみたいに、すう~っと気持があの人から離れていたの。それで直ぐに別れることにしたわ」
「電話の一本でもかけて呉れれば、何かの力になれることはあったのに」
「・・・・・」
「俺とお前は隣同士で育った幼なじみなんだ。どんな時でも俺はお前を守ってやるよ」
沢木はワインのグラスを口に運んで、苦い思いを飲み込んだ。
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