第37話 「忠彦さん!」「君か?美沙!」 

文字数 2,472文字

 東京行きの新幹線が発車した後、小宮美沙は空席になっている隣の座席に新聞を置き、シートを斜め後ろに倒して眼を閉じた。直ぐに、浅い眠りに落ちた。
 目を覚ました後、彼女はシートの下の足元に置いたアタッシュケースに手を伸ばして仕事用のファイルを取り出した。
 美紗がふと顔を上げたその時だった。一人の男性が通路を歩いて此方に向かって来た。
ダークブラウンのシャツとズボンにツイードのジャケットを合わせている。男は薄い茶色がかった眼鏡で眼を隠し、片手をズボンのポケットに入れて、大股の急ぎ足で此方に向かい乍ら、何か考え事をしている様子だった。
・・・彼だわ!何ということだろう!
「忠彦さん!」
男は美沙に目を凝らし、やがて何かに気付くと、眼鏡の奥で何度か素早く瞬きをし、繁々と彼女を見た。
「君か?・・・」
男は小さな叫び声を上げ、真白い歯を見せて微笑した。
「美紗!」
彼女は立ち上がった。二人は笑い合い、ごく自然に互いの両肘を抱え合った。
「驚いたわ。眼鏡を架けているんだもの。それに、スーツじゃなくてラフなジャケットにノーネクタイ!まるで人が変わったみたいね」
そんな風に言う美沙の声の調子は、嘗て、五年前まで、互いが狂おしいほどに激しい恋の相手であった頃と同じように、明るかった。彼女の眼の前に居る水谷忠彦は、嘗て、彼女が結婚することになっていた相手だったのである。
「立ち話もなんだから、食堂車へ行かないか?」
「うん、そうね。それじゃ一緒にお昼を食べましょうか。五年振りなんだものね」

 食堂車は比較的空いていた。二人は窓際の白いテーブルに向かい合って座った。忠彦が手慣れた様子で、美沙にはスモークド・サーモン・サンドイッチと自分にはシュリンプサラダを注文した。
 やがて美沙は陽に焼けた忠彦の貌を見ながら驚くほどの早口で話し始めた。
「わたし、今、大手の銀行のコンピューター・オペレーションに関するコーディネーターをしているの」
「へえ、凄い仕事なんだな」
「一年前に結婚して子供は未だだけど、夫は小児科医なの」
「なるほど。それなりに幸福な生活を送っているんだ」
「あなたは今、どんなお仕事を?」
彼はサラダをつつきながら短く答えた。
「俺は、売れない映画のシナリオを書いているよ」
「まあ、素敵なお仕事なのね」
美沙は忠彦の貌を見ながら、昔と変わらず、やっぱり良い男振りなのを確認していた。
眼の周りにはうっすらと小さな皺が現れてはいるけれども、高い鼻梁の顔には張りが在り、顎の辺りはすっきりと余分な肉が無く、髭剃り後はつやつやと輝いている。
 やがて、舞い上がったような再会の興奮が鎮まると、二人の間に妙に居心地の悪い雰囲気が漂い出した。二人とも暫くの間、黙って食べ物を口に運んだ。
「もう五年になるのね」
美沙が口を切った。
彼女は自分の声が上辺だけの落ち着きを装っていることに苛つきながらも平静に話した。
「五年も前に起こったことについて、あなたとこうして話し合うなんて思ってもみなかったわ」
美沙は飲物を一口、呑み込んだ。
「あれは、何日のことだったかしら?」
彼女は窓の外を流れる景色に視線を投げかけながら少し微笑んだ。

 五年前の夏、暑い夜にすっぽりと包まれていたあの日、突然に忠彦は美沙の前から姿を消してしまった。
「何があったの?ねぇ、忠彦さん?」
美沙は出来るだけさり気なく訊いてみた。が、忠彦は急に黙りこくってしまった。
美紗は眼の前のテーブルをじっと見つめ、やがて、遠い所から聞こえてくるような声で話し出した。
「あの後、二年経っても私、あなたを捜していたの。あなたと行った処へは全て行ってみたわ。サイクリングロードを走り、琵琶湖へ行き、神戸にも行ってみた。イブの夜には“北山ウエディングストリート”にも行ったし、お正月には地主神社にも出かけたの」
「悪かったよ!美沙」
美沙は忠彦の言葉を無視するかのように続けた。
「わたし、あのことから未だちゃんと立ち直っていないの。あなたが行ってしまってから何週間も泣いたわ。死んでしまいたいとも思った。あなたの写真は前部燃やしちゃったし、あなたに関わるものは全て何もかも・・・。でも、それでも役に立たなかったわ」
「君を傷つける心算は無かったんだ、誰も傷つけたくはなかった、真実に・・・」
その時、美沙の感情が急に盛り上がって哀しみが一気に噴き出した。
「そりゃ、あなたとの後、夫と結婚するまでには、色々あったわ」
淋し気な口調で美沙が続けた。
「私は自分に言い聞かせたの。あなたから解放されなきゃ駄目だって・・・そして、ジャズを聴くことは止めた。だってあれを聴くとあなたを思い出すし・・・サイクリングも止めた。それもあなたを思い出すから。イブを祝うことも止めたし初詣にも行かなくなった。全部あなたを思い出すから・・・あなたと行った場所、あなたと歩いた街、あなたと一緒にやったこと、全てを消し去ったの。そして、仕事も変えて自立を図ったわ」
美沙は無理して微笑っているような表情を見せた。
「今の主人に出会って漸く私は救われたの。あの人はまるで子供をカウンセリングするようにして私の心をゆっくりと溶き解してくれた、一年以上もの時間をかけて。そして今、ご覧の通りの私が此処にこうして居るってわけ。だから、今は幸せな結婚生活を送っているわ」
忠彦は俯きながら小さく言った。
「そうか・・・それは、良かったぁ・・・」
美沙が続けた。
「別に謝って貰う心算でこんなことを言っているんじゃないのよ、忠彦さん。わたしには一体何が起こったのかまるで解らない。そのことがずっと気に懸っていたの。長い間、私は自分を責めた。きっとあなたに対して優しさが足りなかったんだって。それに知性も美貌も不足していたし・・・一生懸命になって自分を責めては言い聞かせたの、私に何かが足りなかったんだって・・・夫と出逢った後になって漸く私はそういう自責の念から少しは解放されたけれども、でもやっぱり、あなたと私の二人の間に実際に何が有ったのかは解らないままだったわ」
美沙はそこまで言って、じっと忠彦の顔を見た。
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