第35話 奈緒美は記憶に有るよりはずっと美貌だった 

文字数 2,189文字

「毅さん」と言う書き出しでそれは始まっていた。
「わたし、十日ほど、テレビの取材で京都に居るの。是非お会いしたいんだけど・・・」
奈緒美・・・京都に来ているのか・・・
 レストランの仄暗い灯の下で見る奈緒美は記憶に有るよりはずっと美貌だった。
瓜実顔に感じの良い小さめの唇、間隔の開いた円らな黒い瞳、微笑むと出来る片笑窪は整った顔立ちを際立たせている。その美貌に毅は己の心の始末が悪いほどに見惚れた。
無論、その美貌はジャーナリストとしての奈緒美に幸いしたが、反面、彼女の足を引っ張るものでもあった。年配の記者や老練な編集者には、これほどの美人が記者としての実力を具えているとは信じられなかったのである。奈緒美は自らの美貌に打ち克つ為に、同僚たちの何倍も働かなければならなかった。
「今、取材班を組んで観光都市京都のこれまでとは違う新しい魅力を取材しているところなの」
「以前、観光と芸能の仕事だけはしたくない、と言ったことがあったよな」
「まだ若かったのよ、あの頃は」
奈緒美は続けて言った。
「あなただって、ファッション写真だけは撮りたくない、って言っていたじゃないの」
「あれは喰う為に仕方なくやったことだ。でも、もう三年前に止めたよ」
「知っているわ。名の売れたあなたが何かの雑誌で語っているのを読んだから。あなたの為にはその方が良かった、と喜んでいたのよ、わたし」
気まずい瞬間が生まれた。
奈緒美はどう続けて良いのか迷っているようだった。可能な限り簡潔な言葉を探し出そうとでもするかのように、奈緒美はスプーンでコーヒーを掻き混ぜた。
「戦争や戦場や戦闘員や、地震や原発や、惨禍の人々やその土地を報道する、それがあなたの生き方なのね」
毅は微笑を浮かべた。
「ああ、それが僕の生き方だよ。危険な場所に身を置いて、埃まみれ、塵塗れ、泥まみれになっている」
奈緒美は小さく笑った。
毅はつづけた。
「君だってそうだったじゃないか。然も、あんなに有能だった。あの当時の君くらい有能な記者はそうザラには居なかったよ」
「記者の仕事って好きだったなぁ、わたし」
「今だってその気になれば出来るじゃないか」
ニュース番組のキャスターをしている彼女は、毎日スタジオに座って、テレプロンプターの掲げるニュースを読まなければならない。
「遠く離れて自分たちとは直接関わりの無い激動するシリアのニュースなどに、一般の日本人はあまり興味を持っていないのね。破壊された街や家、転がる死体、惨たらしい戦場、そんな悍ましいものを見たくないのよ、平和な日本人は。旅やファッションやグルメやお笑いのような毒にも薬にもならないものが観たいのよ、きっと。そんなものはシリア関係のニュースには決して登場しないからね。だから、この京都に派遣されたってわけ」
「此処だったら、その毒にも薬にもならないものが一杯在るってことか?外国人を初め観光客だらけで生粋の京都人が殆ど居ない、気品も風情も情緒も地に落ちたこの京都に何を観ようって言うんだ?」
「ええ。でも、替わりに観光客の落とすお金が溢れるほどに入って来るじゃない?お金には関心が有るんですもの、視聴者は」
毅は笑った。
低く笑いながら、同時に、アフガニスタンの戦地で危険に晒されながらも必死に抵抗した時の奈緒美を思い出していた。あの時、奈緒美は泣き叫びながら残ろうとしたのだった、絶対に最後まで見届けるんだ、と言って。あの時の取材では、それこそ数え切れないほどの死体や惨たらしい惨禍を目撃したのだが・・・。
毅は言った。
「でも、なんとかシリアに行ってみるべきだよ。行かないとこの先の歴史的瞬間を見逃すことになるかも知れないぞ」
「わたしはこの侭、あなたを見逃す方が辛いの」
「今更、そんなことは言わないでくれよ。僕は歳を取り過ぎたよ。そう言うゲームはもう出来ないよ」
「ゲームとは違うと思うけど、これは」
「否、違わないよ。ただ、あの時、僕たちは別々のルールでゲームをしていたんだな、きっと」
長い沈黙が続いた。
低い声で奈緒美が言った。
「悪かったわ、ご免なさい、毅さん。此処に来たらあなたを怒らせることだけはしたくない、と思っていたの・・・。真実に私、もう随分前からあなたに逢いたかったのよ」
それには答えず毅は勘定を頼んだ。
外に出乍ら、彼は囁いた。
「僕も会いたかったよ、君に」
人が溢れかえる五条坂の交差点から清水坂の細い道を通って、彼女の泊まるホテルに足を向けた。
奈緒美が坂道の通りを見上げて何か言おうとした。
「そう言えば、あの時・・・」
「止そう、昔の話は。もう過ぎたことじゃないか。遠い昔の物語だよ」
 だが、毅の脳裏には、嘗て東京神田の同じような坂下で、雨に濡れながら腕を組んでいた自分たち二人の姿が蘇っていた。あの時、肌まで沁み通って来る雨をもものともせず、靴を踏みしめて、二人は神田の書店街を抜け、坂の上のホテルに通じる長い道を登って行ったものだった。
アフガニスタンの取材から帰って来る毅を奈緒美は心待ちしていた。殺戮と死の凄絶な戦争の呪縛から心身を解き放つ為に二人は求め合った。
蠅のたかる死体の散乱するカンダハールの街から遥か遠く離れた雨の東京で、二人は丸二日間ホテルに閉じ籠った。そして、様々な誓いを交わし、将来を語り合った。笑い合って食事を摂った。愛し合った。耳を聾する空爆の爆音から遠く離れた東京の一角で・・・
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