第38話 「俺は男の機能を失ったんだ、あの事故で」 

文字数 1,519文字

 忠彦は寂しそうな悲しそうな面持ちで頭を振った。
「今なら君も理解出来るだろうと思うから、もう話すけど・・・俺は男の機能を失ったんだ、あの事故で」
「えっ?何ですって?」
「男として不能になってしまったんだよ、五年前のあの交通事故で」
「まさか・・・そんな・・・」
言いながら美沙は忠彦の顔をまじまじと見詰めた。
 五年前の五月、青空に薫風香る交差点で、信号を無視して突っ込んで来た大型トラックに激突された忠彦の乗用車は原型を留めぬほどに大破して、彼はその中に閉じ込められた。漸く助け出された忠彦は腰の骨と大腿骨を折り、脊椎にも損傷を負って二か月間の入院生活を余儀なくされた。その間、美沙は献身的に忠彦の看病と介護に力を尽くし、その甲斐あって、彼は、身体的損傷はほぼ跡形を残さずに治癒した。退院の日には、忠彦の乗った車椅子を満面の笑顔を浮かべた美紗が後を押して、病院の玄関を出た。季節は既に炎天の夏を迎えていた。
 話を聴いていた美沙が両手で顔を覆って啜り泣きを始め、途切れ途切れに言葉を繋いだ。
「わたしって・・・なんて・・・無知で、無神経で、馬鹿だったんだろう・・・」
「君は優しかったよ。無神経でも馬鹿でもなかったよ。真実に良く尽くしてくれたんだ。心から感謝しているよ」
美沙は静かに泣き続けた。
「俺は君を心底、愛していた。だから、入院中も退院してからも、丸三か月間、考えに考えた。三カ月苦しみ悩んで、漸く、君の元を黙って去ることにしたんだ」
「可哀相な、あなた・・・」
暫くして美沙が言った。
「でも、打ち明けてくれれば、わたし、あなたと結婚したものを・・・傍に一緒に居てあげられたのに・・・」
「君ならきっとそう言うだろうと俺も思った。だが、それが怖かったんだよ、俺は」
美沙が顔を上げて忠彦を見た。眼の縁が赤かった。
「一年、二年は良いよ。四年、五年も良しとしよう。だが、十年或は二十年が経った時、君に人並みの女の幸せを与えられなかった大きな後悔がきっと来る。その時はもう手遅れなんだ。君に一生涯、尼僧のような暮らしは強いられない。君には、心身共に健康な夫を持ち、子供にも恵まれる人生を送って欲しい、俺はそう思った。だから、このことは言わないでおこうと心に決めて、君の元を去ったんだ。それしか道が無かったんだよ」
美沙は黙ったまま放心したように眼を上げて窓の外を眺めて居た。
忠彦が言った。
「幸い、君は俺以上の人物に巡り会って、今、幸せで居るならそれに越したことは無い。俺も真実に嬉しいよ」
「・・・・・」
暫くして、美沙が呼びかけた。
「忠彦さん、許して・・・あなたの苦悩を何も知らないで・・・わたし、何と言ってあなたに謝ったら良いのか・・・」
忠彦が美沙の手を取った。
「君は何も謝ることなんか無いよ。謝らなければならないのは俺の方だ」
蒼ざめていた美沙の顔に幾らか血の色が戻っていた。不意にもう一度、泣き出しそうな表情になったが、泣き出しはせずにはにかむように笑って忠彦の顔を見た。
「愛していたの、わたし、心から・・・」
「ああ、解っているよ、美沙。俺も君に夢中だった・・・でも、もう過ぎてしまった昔の話だ」
二人は暫く、お互いを見詰め合った。沈黙が続いた。
やがて美沙が言った。
「あぁ、もう直ぐ東京だわ、そろそろ自分の席へ戻らなくっちゃ」
「うん、そうだな」
忠彦は座席から立ち上がる美沙に手を貸した。
その時、カーブに差し掛かった列車が揺れて美沙の身体が大きくよろめいた。忠彦は咄嗟に手を伸ばして彼女を抱えると、両腕に抱き締めた。忠彦の方を向いた美沙は首を縦に大きく振り、何度も頷きながら、にっこり笑った。
忠彦はゆっくりと歩み去る美沙の後姿を心に包み込むようにじっと見送った。
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