第10話 小学校六年生の夏休み前だった

文字数 2,640文字

 あれは小学校六年生の夏休み前だった。
クラスの原口明菜と言う大柄な女の子がその膨らみ始めた胸を喧嘩大将の金村に触られた。
「何するのよ!」
彼女は金村に食って掛かって行ったが、彼はへらへらと嘲笑って他の仲間達とより一層囃し立てた。それにカッと腹を立てた明菜は、いきなり、自分よりも遥かに躰の大きな金村に掴み掛かって行った。同級生達は男の子も女の子も、相手がガキ大将の悪学童だったので、見て見ぬ振りで素知らぬ顔をしていた。
池田淳一はそんなクラスメイトに訳の解らぬ怒りを覚え、明菜と同じように自分も恥ずかしめられたように感じて、大きな声で怒鳴った。
「金村、謝れよ!原口に謝れよ!」
振り返って慎一を見た金村がうすッと嗤った。
「関係無ぇだろう、お前には!黙って引っ込んでいろよ、な」
「原口の胸を触ったのはお前個人のセクハラだが、黙って見過ごせばクラス全体の問題になる。さあ、原口に早く謝れよ。謝れ!金村!」
「何だと、この野郎!やるのか!」
金村が殴り掛かって来た。机や椅子が乱れ、男の子が騒ぎ、女の子が叫喚した。金村は淳一が所詮敵う相手ではなかった。淳一は相手にボコボコに殴られ、押し倒されて机や椅子の脚で顔面を強打し鼻から血が流れ出た。
クラスメイト達が、男の子も女の子も、強い眼差しで詰め寄るように金村をぞろぞろと取り囲んだ。
「なんだよ、お前ら!・・・退けよ!」
金村は皆を押し退けるようにして独り教室を出て行った。
起ち上った淳一がグズグズする鼻を手で擦ると甲に赤い血が着いた。明菜がすっとポケットからティッシュを取り出して淳一の前に突き出した。上目遣いに彼女を見た淳一は小さな声で「サンキュウ」と言ってそれを受け取った。
「普段おとなしい池田君があんなことをするなんて、私、吃驚しちゃった」
「そうね、あの人にあんな勇気が在ったなんて、真実に驚きだわ」
「彼奴もなかなかやるじゃないか、良い根性して居るよ、全く」
「頭が良いだけじゃなくて、ハートも熱いのかな?」
女の子達が痺れ、男の子達が目を見張った。
淳一は、もともと、勉強がとても良く出来ると言うことで一目置かれていたが、この件で彼はクラスのスターになった。
明菜は眼のくるりと大きい色白の可愛い貌で、勉強も良く出来た。先生の質問にはいつもテキパキと明確に答えたし、とりわけ、彼女の得意な科目は図工と音楽だった。明菜が描いた絵はいつも学校や地域の絵画展に入選したし、唄は誰もが驚くほどに上手かった。そして、彼女の身に着けている服装はクラスのどの子のものよりも洒落ていた。淳一にはそう見えた。淳一と明菜は急速に仲良くなって行った。

 中学二年生になって二人はまた同じクラスになった。
中学生になった淳一は明菜とろくに口を利いたことが無かった。彼女ばかりでなく特定の女の子と親しく接したことも無い。それは何も淳一に限ったことでは無く、小学生ならともかく、中学生になると仲間は同性に限られてしまう。学校の行き帰りも、休み時間も、男の子は男同士、女の子は女同士で誘い合い、連るんでしまう。遊んだり話したりする相手が分かれて、淳一と明菜が一緒に親しく話すことは無くなっていた。朝、登校時に校門の前で出くわしても、互いに素知らぬ顔をして「お早う」とも言わなかったし、明菜はツンとした表情で淳一に背を向け、女の子達の方へ駆けて行った。淳一も明菜も、思春期になって、急に相手が他人に見え、それを何と無く意識して照れ臭くもあったし、眩しくもあった。淳一はセーラー服姿の良く似合う明菜が急に大人っぽく見えて、彼女を見ると気持ちがどぎまぎし、妙に明菜の存在を意識するのだった。
 厳しい残暑が去って愈々勉学のシーズン到来と言う十月初めの日曜日、淳一は朝起きると急に胃の痛みを感じた。触ってみると胃の辺りが膨らんでいるように思えた。彼がシャツを捲って見てみると、皮膚と胃の間に、長さ七、八センチ、直径一、五ミリほどの、丁度、小さなフランクフルトかウインナーのような縦長の盛り上がりが在った。抑えると胃に鈍い重い痛みを感じた。淳一はそのまま朝食と昼食を食べたが、夕食時には痛みが酷くなって食事を摂ることが出来なかった。翌朝、母親のマイカーで罹りつけの内科医を受診すると、「ヘルニア」と診断されて直ぐに外科手術を受けるように言われた。
「通常は、ヘルニアは下腹部へ出るものだが、君の場合は、上へ揚がって来て胃の辺りに現れたんだな」
紹介されたのはカトリック系の大きな総合病院で、紹介状はその外科部長宛てになっていた。問診や打聴診や検査の後、その場で「即入院」と決まり手術は翌朝に予定された。
全身麻酔で手術台に乗った淳一は昼前になって眼覚め、そのまま病室へ運ばれた。部屋はトイレも洗面所も付いている広い個室だった。
 
 淳一は、一日中、心身共に気怠く過ごしたが、夕方になって、思いがけなくも、明菜が見舞いにやって来た。付き添っていた母親が帰宅した直後だった。
入って来るなり明るい笑顔で訊ねた。
「どう?痛む?」
「いや、それほどでもないよ。でも、どうして知ったんだ?俺の入院のこと」
「あんたが休んだから担任の先生に訊いたのよ、そしたら、此処を教えてくれた」
「そうか・・・」
淳一の胸は、術後の痛みやしんどさを忘れて、軽やかに弾んだ。心が浮き立った。
「あのね、山口先生が結婚して新婚旅行に行ったんだって、昨日から」
山口先生と言うのは若い独身の国語の女先生だった。
「あんた、あの先生、好きだったんでしょう?残念ね。あの先生、綺麗だもんね」
「何を馬鹿なこと言って居るんだ、お前」
「ああ、赤くなって照れている、ハッハッハッハ」
淳一も連られて笑うと縫い口が痛んだ。
「おっ、痛てて・・・」
「ハッハッハッハ」
明菜は陽気な笑顔で淳一を元気付けた。
「あんた、食事は?」
「うん、昨日は絶食で今日は重湯。明日が薄粥でその後が堅粥・・・普通食は週末くらいかららしい」
「そうか。じゃ、果物なんかは持って来ても未だ無理ね、食べるのは」
「別に何も持って来なくて良いよ。気持だけで十分だし、来てくれただけで嬉しいよ」
「ほんとうに?・・・恰好つけてんじゃないの?」
明菜は夕食が始まる六時近くまで話し込んでいたが、帰り際につとベッド脇に寄って来て不意に淳一の唇に自分の唇をチュッと触れた。まろやかな少女の唇の感触だった。
「じゃ、帰るね。お大事に。バイバイ」
彼女は片掌をひらひらさせて病室を出て行った。見送った淳一は暫し呆然としていた。
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