第27話 毅、社長の息子を殴って会社を辞める 

文字数 2,498文字

 終業のチャイムが鳴って皆が帰り支度を始めていた工場事務所に横田恒夫が入って来て原田美代を誘った。横田恒夫は社長の息子で目下は事業部長に付いて工場の運営管理を学んでいる最中だった。仕入先の大きなメーカーに預かって貰ってアメリカで二年間武者修行をして来たが、かなりのプレイボーイだと言う噂もあった。原田美代は宮崎県の延岡市から出て来て生産管理の事務を担っている入社三年目、短大卒の二十二歳だった。
「今日は週末だし、松山主任と上西さんと君と僕の四人で晩飯でも食べに行かないか?」
「わたしは・・・」
美代は少し躊躇って返事を濁した。美代の頭には交際し始めて間もない酒井毅の顔が浮かんでいた。が、彼は今日、東京本社へ出張していて不在だった。
「偶には、毎日一緒に仕事をする仲間と気軽にコミュニケーションを図るのも良いじゃないか、な」
松山主任は美代の上司で四つ年嵩の二十六歳、上西綾子は同期に入社した数少ない仲の良い友人だった。二人の名前を聴いて美代も、ま、良いか、と同道を決断した。
 二日後の朝、出勤して直ぐに上西綾子が酒井毅を事務所の裏へ呼び出した。
「ねえ、美代の様子が変なの、あなた何も気づかない?」
「変って、何がどう変なんだ?」
「何か放心しているようで、心と身体が浮遊して彷徨っているようなのよ」
「最近、何か思い当たることは無いのか?」
「そう言えば、先週末に晩御飯を食べに行って、その後、今週からおかしくなったように思えるわ」
「その時、何かあったんじゃないのか?」
「あの時、村上さんと私は地下鉄四条駅の近くで車から降りたんだけど、美代は横田さんに送って貰って、その儘、車に乗って帰って行ったのよ。あの後、何かあったのかしら」
毅には直ぐに閃くものが有った。
・・・まさか、あの野郎・・・!

 丁度昼休みが始まったばかりで従業員たちは皆、昼食を摂る為に食堂へ馳せ参じた後だった。立ち並ぶ工場棟群の奥で作業衣に身を包んだ二人の男が爭っていた。
「女子社員を食事に誘って、挙句の果てに、モーテルに引っ張り込んで犯ってしまう、それが社長の息子のすることか!恥を知れ、恥を!」
毅の眼には憤怒の紅い炎がめらめらと燃え上がっていた。
「お前には関係無いだろう!とやかく言われる筋合いは無いよ!」
「何だと、この野郎!」
いきなり毅が恒夫の胸座を掴んで、握りしめた拳で一発、二発と顔面を殴りつけた。
「何をしやがる、この野郎!」
毅の腕を振り払って掴み掛って来た恒夫に対して、一瞬、身を低くした毅が狙い澄ましたように相手の鳩尾にストレートのパンチを見舞った。
「う、う、うっ・・・」
苦悶の表情を浮かべて身を屈める恒夫の顎を今度は右のアッパーで突き上げた。
恒夫はもんどり打って尻からアスファルトに崩れ落ちた。
「立てよ!立ってかかって来いよ!男だろうが、え!」 
流れ出る鼻血を拭おうともせずに恒夫が喚いた。
「お前なんか首だ!此処に居れ無くしてやる!」
「ああ、結構じゃねぇか。手前ぇみたいな出来損ないがのさばっている会社なんか俺の方から辞めてやるよ、馬鹿野郎!」

 翌日の土曜日の夜、「酒井印刷所」の看板が架かった工場の中で毅は父親と向き合って座っていた。細長い蛍光灯が一本灯った室内には煤けた町工場のインクの臭いが立ち籠っていた。
「会社辞めたんだ、昨日」
「どうしてだ?・・・上司と喧嘩でもしたのか?」
「そうじゃないよ。社長の息子だからって、嫌がる女を無理矢理モーテルへ連れ込んで、俺はそんな奴、許せないんだよ」
「・・・・・」
「バンとした外車に乗って、然も社長の息子で、同僚と一緒に飯食いに行こうって誘われたら、従いて行った女の子を責めたって、責め切れないところ有るよな」
「お前、好きなのか、その娘?」
「うん、まあ。何回かデートしたことは有るよ」
「その社長の息子とか言う奴に騙されたってことか、その娘?」
「まあ、そういうことだよ」
「それでそのドラ息子を殴ったって訳か、お前?」
「うん。どうにもこうにも腹が立って、我慢し切れなくて、昨日、とうとう・・・」
「それで、その娘はどうしたんだ?」
「知らないよ、その後は逢っていないし・・・」
「放っておく心算か?」
「判んないよ、今どうしたら良いのか・・・」
「兎に角、会社は辞めてしまったんだな、もう?」
「うん・・・」
「解かった。然し、どうする心算なんだ、この後?」
「親父の仕事を手伝わせてくれよ。手が足りないって言っていたし、何処の誰だか判らん奴を雇うより俺の方が良いと思うんだ。その方が俺も気が乗るし」
「そうか、そう言うことがあったのか。解った、暫く俺の弟子で頑張ってみろ。但し、手を抜いたらどつき上げるからな、覚悟しておけよ」
 
 三日後、工場の入口に、突然、原田美代が立った。毅は真直ぐに美代を凝視し黙って彼女を外へ連れ出して、家の近くの喫茶店へ導いた。
何も話さずに黙って座ったままの二人の前で、コーヒーは既に冷え切っていた。
「言えよ・・・言いたいことが有ってやって来たんだろう?」
「会社辞めたのね・・・私の所為ね」
「関係無ぇよ、君とは」
美代がゆっくり首を左右に振った。
「私が軽率で馬鹿だったの、だから責められても仕方ないの。でも、あなたが会社を辞めなければならなくなるなんて、そのことが私には・・・」
「話ってそんなことかよ。もっと有るんだろう、大事な話が?・・・」
「わたし、あなたにだけは真実のことを知っておいて欲しいの。もう以前の私じゃなくなってしまったけど、でも、真実のことを言っておきたいの」
「今更俺がそれを聞いて、どうなると言うんだよ?」
「わたし、横田さんがあんなことをする人だとは思わなかったし、真実に、必死で、懸命に抵抗したんだから・・・同意なんて絶対にしてないんだから・・・でも・・・」
美代は話している途中から両手で顔を覆って嗚咽し始めた。指の間を伝って涙がぽたぽたと零れ落ちた。
毅はそんな美代をただ見ているだけで何も言えなかった。
 美代は暫し、俯いたままじっと動かない毅を見詰めていたが、やがて、顔の涙を拭ってトボトボと彼に背を向けた。
「さよなら」
美代の小さな呟きが毅の胸に痛く疼いた。
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