第14話 常連客、大木の急死

文字数 2,260文字

 霙交じりの寒い冷たい二月の夜だった。
午前零時を回ってクラブ「純」を出たバーテン嶋木は、強い風に吹かれてコートの襟を立て、肩を窄めて家路を急いだ。川沿いの道を西に向かって歩き、交差する通りを左折しようとして、川に架かる橋の袂で黒いものが蹲っているのを眼にした。常連客の大木だった。欄干を背に両足を前に投げ出して、ぐったりともたれかかっていた。嶋木が屈みこんで両腕を掴み、ぐいっと引き起こした時、どんより曇った鈍色の眼が開かれ、泣いているのが見て取れた。
「大丈夫ですか、大木さん?」
嶋木は声をかけた。
「ああ、ああ。構わんでくれよ」
声はくぐもって擦れている。眼も据わっていた。
「さあ、行きましょう。家まで送りますよ」
「放っといてくれよ」
「こんなところに居たら凍え死んじゃいますよ、大木さん」
「放っといてくれと言ってるんだよ!」
今まで聞いたことの無いぞんざいな言い方だった。
だが、嶋木が抱え起こすと逆らわずに立ち上がった。が、ぐらっと前につんのめり、深く息を吸い込んで又、ぐらっとつんのめって橋の欄干に手をついた。泥酔していた。それに苦渋と疲労に打ちひしがれてもいた。
嶋木はタクシーを止めて、半ば押し込むようにして大木を乗せた。

 一カ月後、嶋木がふと顔を上げるとカウンターに居た大木の姿が見当たらなかった。と同時に、彼の座っていた辺りに人の輪が出来て、周囲が騒々しくなった。
近寄った嶋木の眼の下で大木が倒れていた。
「大木さん、大丈夫ですか?大木さん!」
直ぐに救急車が呼ばれて病院に運ばれた。居合わせた常連客の一人が同乗して行った。
その日の深夜に嶋木の携帯電話が鳴った。純子ママからであった。
「大木さんが先ほど、亡くなったの」
「えっ?」
「救急車で病院に着いた後、程無くして、心筋梗塞で息を引取ったの」
「・・・・・」
「遺体は、今夜は病院の安置所に留め置かれるわ。でも、家族や親戚に連絡しなければならないので、明日の朝、大木さんのマンションへ一緒に行って欲しいのだけど・・・」
「解りました。同行します」
翌朝、大木のマンション前で純子ママと落ち合った嶋木は、マンションの管理人に事情を説明して、部屋を見せて欲しい、と依願した、が、管理人を納得させて許可を得るには暫く時間が掛かった。結局、管理人も一緒に立ち会うことで、部屋に入ることを許された。
 大木の部屋は三階にあった。管理人の手でドアが開けられた瞬間、嶋木はしばしその場に立ち竦んだ。2LDKの、さして広くは無いスペースではあるが、入り口の下駄箱から奥の洋間まで、寺院のように粉塵一つ無く綺麗に、整頓され、清掃されていた。
 ダイニングキッチン、リビングルーム、何処を見ても、埃も被っていない。床には沁み一つ無かった。
奥の洋間にはベッドと和箪笥一竿、それに黒塗りの机と椅子一脚、壁には乳白色のクロス紙が貼られ、クローゼットが埋め込まれていた。窓に面した机には、閉じたノート型パソコンとプリンター、筆記用具立てが整然と並んでいる。机の横の壁には、座右の銘と思われる、達筆の毛筆でしたためられた色紙が飾られていた。
“欺瞞無く偽善無く、驕り無く卑下無く”。
「ねえ、ねえ、あんた達」
胡散臭そうな口調で管理人が二人に言った。
「いったい、この部屋で何を捜そうというんですか?」
「家族か親戚の名前、住所、何でも良いんだ」
嶋木は答えた。
「誰か一人くらい身寄りが居るんじゃないかと思ってね」
嶋木はクローゼットの三枚扉を開いて「おうー!」と声を上げた。
「これは綺麗だ!」
中には女物のドレスが二着、透明なカバーをかけて吊るされていた。
一枚は春の晴れやかな桜色、もう一枚は秋の鮮やかな柿色であった。どちらも生粋のシルクで、いかにも豪奢な手触りがした。管理人はどきどきした表情でドレスを眺め、飾り気の無いベッドの上に一着ずつ並べて置いた。
純子ママが開いた和箪笥の最下段の抽斗から、紐でキッチリと括った手紙の束が出て来た。差出人はすべて一人の女性の名前であり、発信地はいずれも北郊の地方都市であった。嶋木は宛名の住所に目を走らせながら封書の束を繰った。宛先住所は大木の異動の跡をそのまま示しているように思われた。その他の手紙やハガキ類は机の抽斗にも、部屋の何処にも無かった。残されていたのはこれだけだった。
 手掛りを求めてリビングルームの本棚を見てみた。
最下段の棚にアルバムが一冊立っていた。ケースから抜き出して捲ったアルバムには、一枚一枚の写真に日付と場所が付記されて、二十代の輝くように若くて自信に満ちた微笑の大木と、瞳の大きな気品ある可憐な女性が並んで写っていた。
どの写真も笑顔と幸福に満ち満ちていた。が、最後の四、五枚は笑顔が消えて憂愁と悲嘆にくれた表情の二人が、淋しそうに並んでいるものであった。日付は昭和〇〇年〇月〇日、場所は熱海「お宮の松の前」、アルバムの写真は其処で終わっており、他には一葉の写真も残っていなかった。
 結局、大木の死を知らせるべき家族や親戚の手掛りは何一つ得られず、嶋木は大木の天涯孤独を思いやって胸が塞がれた。
管理人と嶋木と純子ママは、またドレスをクローゼットに終い直し、全てを元通りに戻した。手紙は開封しなかった。管理人が部屋に鍵をかけ、三人はマンションの前で別れた。
 二日後、純子ママと嶋木はクラブ「純」の常連客達に声を掛け、店の者全員を混じえて、市の斎場で大木をひっそりと葬ってやった。
その翌日、嶋木はあの全ての手紙の差出人である女性に手紙を書いて、大木の死を知らせた。
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