第25話 「おじさん、知らせておきたいことがあるんだけど・・・」 

文字数 2,194文字

 毎年誕生日が来る度に、藤木紘一は、ずっと昔、自宅の近くにやって来た名も知らぬ男のことを思い出す。黒づくめの衣服に身を包み、額にも頬にも険しい皺が刻まれていた。
 その時、紘一は小学六年生の十二歳で、学校から帰ると毎日のように、近くに在った広い空地で友達と野球に興じていた。
 ある夕暮れのことだった。センターを守っていた紘一が、ふと西側の大通りに眼をやった時、その男が眼に入ったのである。
男はキビキビした早い足取りで通りを北へ向かっていた。黒のスーツに黒いワイシャツ、黒いネクタイをきりりと締めて黒いソフト帽を目深に冠り、先の尖った黒い靴がズボンの裾から覘いていた。手にはジムに通うスポーツ選手が持つ類の小さな革のバッグを提げて、何かの建物を探しているようであった。
そして、空き地の角の十字路でつと立ち止まって何かを確認すると、直ぐに右折して、北側の道路に面した十階建ての大きなマンションに入って行った。男はそれっきり出て来なかった。
 その晩、夕食の後、紘一は、映画の中のニヒルな殺し屋もどきの格好をしたその男のことを両親に話した。父親と母親は食事の後の熱いお茶を啜りながら、息子に忠告した。
「そんな訳の解からないやくざ紛いの人とは関わってはいけないよ」
「その男の人は、空き地の横のマンションに入って行ったきり、出て来なかったんだ。あの人、あそこに住むのだろうか?」
母親が応えた。
「あのマンションには空室が幾つか有るそうよ。その人はきっと空室のどれかを借りたんじゃない?直ぐ近くの大きな染物工場に職人として新しく雇われたのかも知れないわね」
 だが、翌日、男は全く姿を現さなかった。その次の日になっても、矢張り同じだった。男は染物工場に雇われた職人ではなかった。あの服装からいっても、それはそうだったろうと紘一は思った。夜になって、紘一はこっそりと空き地に出向き、男が部屋を借りたかも知れないマンションの三階辺りに目を走らせて、ブラインドの下りている窓をじっと見つめた。男はちらとも姿を見せなかった。
 それから一週間後のことだった。
紘一が友達と野球をしに空き地に行くとマンションの三階のブラインドが上がった。あの男が座っていた。黒いシャツを着て黒いネクタイを結んでいた。窓際から少し離れた奥に座っているので、真下の道路を往来する人間の眼には入らなかっただろう。
夕暮れになって紘一たちが家へ帰る頃になると、男は又、ブラインドを下ろした。
 
 数日後、紘一は母親に言い遣って近所の酒店へ醤油と酢を買いに行った。
早くお遣いを済ませて遊びに行こうと急ぎ足で店に入った紘一の眼に、カウンターに立っているあの男の姿が飛び込んで来た。紘一は縮み上がった。
男は紘一の視線を感じたらしく、さっと振り返ると、射るように鋭い黒い眼で彼を見つめた。おどおどした表情の紘一に男は頷いてみせ、買物の包みを抱えて出て行った。
それから数日間というもの、紘一が空き地へ行く度にマンションを見上げると、男は、大抵、窓際に座って新聞を読んでいた。男はそうやって何日かを過ごしていた。ひょっとして何かを待っているのかも知れなかった。
 
 生暖かい金曜日の午後だった。紘一が空き地で遊んでいると、ふと、大通りを徐行している黒い外車が眼に止った。大きな長い黒のボディがピカピカに輝いている。中には二人の男が乗っていた。左側の運転席の男も、右側の助手席の男も、二人とも黒ずくめの衣装を身に纏い、黒眼鏡を懸けていた。運転席の男は口髭も生やしているようだった。外車はゆっくり走って、二丁目を左に折れて消えた。数分後、一丁目から出て来た外車は、またゆっくりと慎重に通りを流して行った。その外車が三度目に表われて二丁目の角を曲がった時、紘一はあの男が住んでいるマンションに飛び込んで行った。心臓が早鐘を打っていた。
紘一はドンドンと男の部屋のドアを叩いた。返事が無い。もう一度叩くと、部屋の中で人の動く気配がした。
紘一が言った。
「僕だよ、おじさん。この間、酒屋で出逢った僕だよ。あのう、知らせておきたいことがあるんだけど・・・」
内側から鍵が外されてノブがゆっくりと回った。と、その瞬間、毟り取られるようにドアがさっと開いた。紘一は吃驚して後ろに跳び退った。男はビシッと上下のスーツを着込んで、拳銃を構えて立っていた。
「おい、おい、坊主・・・」
ふう~っと息を吐き出して男は言った。
「お前の頭を吹っ飛ばしてしまうところだったぞ」
紘一はじっと拳銃を見つめた。本物の拳銃を見るのは初めてだった。古びたニッケルのような色をしていた。当然ながら、拳銃の名前までは判らなかった。
「でも僕、どうしてもおじさんに知らせておきたかったんだ。あのね、さっきから黒い大きな外車が、この近所を三回も廻っているんだよ。中には黒い服を着て黒いサングラスを掛けた二人の男の人が乗っていたけど・・・」
男はブラインドを下ろした窓を一瞥し、眼を細く眇めて紘一を見た、が、彼は何も言わなかった。
「あの連中、おじさんを探しているんじゃないかな?」
「いや」
男は上着のポケットを弄り千円札を一枚取り出した。
「有難うよ、坊主。然し、いいか、お前は此処で何も見なかったし誰にも会わなかったんだ。いいな!」
「うん」
「ようし。じゃあ家に帰って学校の宿題でもやりな」
紘一は千円札をポケットに納って家に帰った。
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