第12話 大空翔子は日本最大のスターだった

文字数 2,032文字

 大空翔子は音楽界のみならず日本最大のスターだった。
大空翔子・・・唄うだけでなく自ら作詞作曲もするシンガー・ソングライター・・・
日本中の何処に居ても彼女の歌声が否応なく耳に入った。ハードな曲では荒々しいまでに情熱的、バラード調の曲では一転して抒情的、生来の甘い美声に彼女ならではのメリハリが付けられている。
 歌だけではない。映画にドラマにCMに、新聞や雑誌やネットの記事に、テレビのインタビューに、彼女の華麗なる容貌としなやかな姿態が見られない日は無かった。
 その夏、大空翔子はデビュー十周年を記念する座長公演を、北海道から九州まで全国を縦断して行っていた。公演は東京を皮切りに札幌、仙台、名古屋、大阪、広島、福岡と巡って締め括りは故郷の京都だった。それは、故郷に錦を飾らせてやりたい、というプロデューサーやマネージャーの翔子に対する深い思いによるものだった。
 公演の前日に京都入りした翔子を待っていたのは夥しいファンの数と物々しい警備体制だった。記者会見の場として用意された京都ホテルの特別室は、毛足の長い絨毯、煌びやかなシャンデリア、アンティーク調のランプなど崇高な雰囲気の漂う伝統的なヨーロピアンクラシズムが溢れる会場だった。集まった記者の数は二百人余り。芸能記者にレポーター、カメラマンにテレビの取材班。男性の記者も居れば女性記者も居た。
大空翔子に向けられた質問は極く月並みなものが多かった。
「京都のご出身だそうですが、最近の京都をどう思われますか?」
「東京に居る時にも“おばんざい”など京都の料理を食べられますか?」
「“アイム・エンジェル”という最新のヒット曲の発想はどのようにして得られたんですか?」
その時、背の高い精悍な風貌の記者が立ち上がった。スーツにネクタイという他の記者とは違って締まった格好をしている。手には手帳と小型テープレコーダーを持っていた。
「大空翔子さん」
彼は丁寧な物言いで訊ねた。
「今やあなたは押しも押されもしない大スターですが、それで、真実に、幸せですか?」 
翔子は不意を突かれたように惑って、返答に詰まった。
う~ん、と言うように眼を宙に泳がせてから、彼女は答えた。
「さあ、どうかしら・・・正直なところ、良く判らないわ」
 会見が終わって自室に引き揚げてからも、彼女はずっとその問について考え続けた。
北から東へ望む五十メートルほどの窓からは、天空へ広がる東山三十六峰の山並みと古都の街並みが一望出来たし、世界的な英国デザイナーによる内装デザインは、これまでに見たことも無い品位有る調和と安らぎを生み出していたが、それらは翔子の心には何も響かなかった。
あの記者に訊かれたようなことは、芸能雑誌や新聞の記者にもよく訊かれる。だが、同じことを訊かれてもさっきのあの記者からは別の違った感じを受けた。生真面目な物腰の所為か、丁寧な言い回しの所為か、あの記者はただお座成りの質問をしていたのではないような気がする。彼は真実に答を知りたがっていた。ひょっとして、心から私のことを心配してくれたのかも知れない、そんなことは在り得ないことだろうけれど・・・
 暫くして、翔子はジーンズに格子柄のシャツという地味な服装に着替え、トレードマークの長い黒髪は上に押し上げて帽子の中へ束ねた。そして、サングラスをかけ部屋のキーをポケットに辷り込ませて階下へ降りて行った。
エレベータを降りて広々としたロビーへ出て行くとあの男がソファーに座っていた。記者会見の席で例の質問をした記者である。彼は直ぐに立ち上がって近づいて来た。
「大空翔子さん、先ほどは失礼。僕の質問であなたを大分困らせてしまったようですね」
「ううん、良いのよ、そんなことは無いわ。私の方こそご免なさい、答らしい答えをしなくて」
彼は向井吾郎と名乗って簡単な自己紹介をした。職業はジャーナリストで東京やニューヨーク、中東や東南アジアでも仕事をしていたと言う。音楽専門のライターではなく諸々の社会現象や文化現象について分析し論評し提起するのが本業とのことだった。
それを聞いて、翔子は微笑いながら言った。
「それじゃ、わたしも、その“現象”とやらの一つなのかしら?」 
「ええ、勿論です。それはあなたも良くご承知でしょう。何処へ行ってもあなたを知らない人など居ないだろうから」
彼女はただ微笑して彼を見やった。
「わたし、これから一週間、このホテルと南座の舞台に閉じ込められるの、まるで囚人のように。それで一つお願いが有るのだけど、聞いて貰えるかしら?」
「ええ、僕で出来ることなら何なりと」
「有難う、嬉しいわ。でね、京都がどんな所だか、ちょっと、散歩に連れて行ってくれません?」
「然し、あなたは京都生まれの京都育ちと聞いていますが・・・」
「私が京都に居たのは中学生までなの。そんな子供が知っている京都なんて多寡が知れているでしょう、何も知らないのと同じだわ」
向井は軽く頷いて言った。
「解りました。お供しましょう」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み