第18話 桂木浩介、三条麗子と知り合う 

文字数 2,163文字

 その日、桂木浩介は医科大学付属病院の日勤を終えて、ひとり夕食を摂っていた。
ふと顔を上げた視線の先に、黒く光る髪と白い肌をした若い女性が華やかな微笑を湛えて立っていた。背が高く、黒いジャケットの下に着た白いタートルネックがとても良く似合っていた。彼女は颯爽と闊歩して彼の隣の席に近づいて来た。連れ立って歩いて来たのは浩介の友人である桜井祥子だった。祥子が彼女を紹介してくれた。
桜井祥子は病院の本部で経営管理や運営を担う仕事をもう十年近くも熟して来たキャリアウーマンだった。歳は三十過ぎであろう。浩介とは、学部は違うものの、同じ大学の出身であった。
「君たち、知り合いだったのか?」
「ええ、祥子さんに病院のマネジメントをレクチャーして貰っているんです、わたし・・・」
自己紹介を終えた後、三条麗子は付け加えた。
「彼女は私の、人生のアドバイザーでもあるんです」
麗子は気さくだった。三人は一緒に食事をして直ぐに打ち解けた。
浩介はその夜、この若い二人を連れて瀟洒なパブに行き、麗子の飾らない無邪気な饒舌振りにすっかり魅了されてしまった。
彼女は浩介のちっぽけな見栄をも大いに満足させてくれた。
「流石にドクターね、何でもよく御承知なのね」
彼女が感嘆する時、浩介は内心悪い気はしなかった。
「医者の先生には三種類あるけど、私は患者と正面から向き合う臨床医が一番好きなの」
「と言うと?」
「大学で学生に医学を教える医学者が居るでしょう、それから、医学や医療の研究や実験ばかりをやっている医者も居るでしょう、でも、患者の生命を預かる臨床医は、人に対して自己責任をもって対峙しなきゃならない訳でしょう、だから・・・」
「なるほど」
浩介は、そう言う見方も有るのか、と感じ入った。
 
 初めて逢ってから三日後、勤務明けの日曜日に彼は麗子をディナーに誘った。次の休日には二人でミュージカルを観に行った。
麗子が浩介に語ったところによると、彼女は東京の世田谷で生まれ育ち、高校を卒業すると直ぐにアメリカへ留学したとのことだった。
「医者に成りたかったの、あなたみたいに。でも、私の能力じゃとても無理だと解って、その替わりに、医者や病院をマネジメントする病院の経営者の端くれになったっていう訳よ」
浩介は翌週もまた麗子をディナーに連れ出した。その時、彼女が浩介に言った一言が完全に彼を盲目にしてしまった。
「わたし今、フォークナーを読んでいるんだけど、流石にノーベル賞作家ね。アメリカ南部の退廃した生活や暴力的犯罪の現実を斬新で独特な手法で描いている。大人の悪の世界と子供の無邪気な世界を描いた“あの夕陽”や南部人の中に燻ぶる復讐心を扱った“納屋は燃える”、或は、黒人リンチ事件と独り身の女性の心理を捉えた“乾燥の九月”など、どれもこれも、凄~く深いのよねえ!」
その語られた彼女の感想に打ちのめされるように、彼は麗子にいかれてしまったのだった。
 だが、浩介は内心、麗子との間に在る年齢の開きに少なからず抵抗を感じていた。なにしろ、彼は三十六歳、麗子は二十六歳だった。ところが或る時、彼女はこう言った。
「若い男って何にも知らないから嫌になっちゃうのよ。その点、あなたは真実に何でもよく教えてくれるから良いわ!」
その後、何週間かの間、デートを繰り返し、その内に浩介のマンションで麗子と夜を共にするようになって、彼は考え始めた。
・・・もしかしたら、彼女と一緒に暮らせるかもしれないな・・・
彼女は言ったのだった。
「どんな人だって独りで暮らすもんじゃないわ。第一、自然じゃないでしょう。それに、そう言うのって、やっぱり変よ」
浩介は彼女に恋していた。三十六歳になる今日まで彼は独り暮らしを続けて来た。浩介は夢を見始めていた。 
麗子の言う通りかも知れない。或る意味で、こんなに長い間、独身生活を続けているのはちょっと、変なのかもしれないなあ・・・ 

 八月の第二日曜日、それは三条麗子の誕生パーティーが軽井沢の別荘で開かれる日であった。何もかもが、気怠くのんびりした日だった。
浩介は身体を刺すような熱いシャワーの下にもうニ十分も立っていた。それから、浴室を出ると、髭を剃り、髪にブラシを当てて、丹念に身に着けて行くべき服を選び出した。
彼はパナマ帽を被り薄いブルーのサングラスを架けてマンションを出た後、タクシーを拾う為に大通りを歩き始めた。頭の中は彼女のことで一杯だった。運転手に行き先を告げると、浩介は座席のシートにゆったりと背をもたらせた。
 浩介は今、彼女の別荘に向かい乍ら、内心は不安に揺れていた。彼の人生にとって、麗子の存在は余りにも突然で全く予期せぬことであったし、それに彼女のことを知らなさ過ぎる故でもあった。
これまでの三か月間は、麗子の方から浩介の世界へ入り込み近づいて来たのであるが、彼の方から彼女の世界に近づいたことは一度たりともなかった。今日、彼女が開く別荘での誕生パーティーは初めて彼が垣間見る「彼女の世界」の一部という訳であった。
 浩介が麗子の別荘に辿り着くと、門を入る前にパーティーのざわめきが聞こえて来た。
玄関のエントランスに設えられた帽子掛けにパナマ帽をかけてから、彼は人で混み合っているフロアに足を踏み入れた。ブルーのサングラスは胸のポケットに仕舞い込んだ。 
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