第36話 「京都に来たのはね、あなたを取り戻す為だったの」 

文字数 1,768文字

 毅は身体を前に進めることが出来なくなった。両手をポケットに突込んだまま立ち止まって、彼は話の継歩を捜した。
「ご主人はどうして居るんだい?」
「別れたわ、あの人とは」
毅はまじまじと奈緒美の顔を見た。
「悪かった。僕はてっきり・・・。でも、彼はとても良くしてくれる、って君は言いていたじゃないか」
「ええ、そう。でも、私が彼を辛く苦しめたの、結果的には」
奈緒美は眼を逸らした。
不意に風が立って、店の前の幟がはためいた。
「あの人の紹介と引き立てで私はテレビ界に入り、スターになった」
「その美貌が大いに役立ったと言うわけだ」
「皮肉は言わないで」
奈緒美は続けた。
「でも、それが返ってあの人の辛苦の基になったのよ。スターキャスターを妻に持つと言う境遇があの人には重荷になったのね。或る時、突然に転職して・・・それから次々と職を変えるようになった、それをみんな私の所為にして。世間の誰もが私のヒモの如くにあの人を見るようになった。それが決定的だったみたい。いつしか酒に溺れるようになって、とうとう或る日、荷物を纏めて出て行ってしまったの」
「優しそうな男だったのに、な」
「優しそうではあっても、優しくはなかったわ」
「君だってそうだった」
「ええ、私もそうだった」
すると、毅の頭にアフリカの取材から三週間ぶりに戻った日の記憶が甦った。
 
 羽田空港からタクシーを飛ばして二人のマンションに駆け戻ると、奈緒美の持ち物が一切合切消えていた。衣類や化粧品から、タオルやティーポットまで全て消えていた。彼女の本も書棚から引き抜かれて、跡には歯の抜けた櫛のように隙間が出来ていた。呆気無いほど簡潔な書置きが残っていた。
翌日、毅は友人から奈緒美の番号を聞き出して電話した。慎重に言葉を選び、逸る感情を抑えて彼女と話した。
「戻って来てくれないか」
「ご免なさい。わたし、思い切ってこうするしかなかったの。わたしにとってはとても重要な選択なの。一生で一番重要な選択かも知れない。わたしがあの人に巡り合った、と言うか、あの人が私を見つけてくれたのかも知れないけど、これを機会に新しい道に進んでみたいのよ。新しい仕事を始める心算なの、テレビの世界で自分を試してみようと思って・・・」
「顔や姿の映るテレビの方が君の美貌を引き立たせると言うのか?」
彼女はそれには答えずに、続けた。
「ご免なさいね、真実に。もしかすると、わたし、間違った選択をしているのかも知れないけど、でも、兎に角やってみなきゃ、間違っているかどうかも判らないしね」
要するに、そう言うことだった。
一方的で突然の別離。受話器を置いた時、毅は、奈緒美が去って行く・・・もう東京には居られない、と思った。奈緒美が新しい男、あの熱っぽい貪欲そうな眼をした下らない男とこの街に、そう遠くも無い目と鼻の先に、住んでいるのを知りながら、此処に住み続けることなど出来っこない。毅は生まれ育った故郷の京都に戻って活動の拠点を関西に移した。それ以後、唯の一言も奈緒美と話さなかったし、それっきり、今日まで逢うことも無かった。
「でも・・・」

 あれから何年も経った中秋のこの夜、京都清水道の坂下で奈緒美は言った。
「わたしは天から罰を受けたわ。あなたに冷たくしたあの日の罰を。だって、あなたと言う掛け替えの無い人を失ったんですもの」
毅が何か言おうとした時、突然、雨が降り始めた。
初めは小降りだったのが、直ぐに篠突くような本降りに変わった。溢れかえっていた観光客は蜘蛛の子を蹴散らすようにタクシーに乗り込んだり、店々に入り込んだりして、忽ち街路から姿を消した。
不意に、毅は奈緒美の手を捕った。そして、遥か昔の無鉄砲なあの神田の夜のように、人気の絶えた長い坂を上り始めた。
最初、奈緒美はその勢いに気圧され、上衣を頭に被って、よろめきながら従いて来た。ハイヒールを履いて居た所為で足元が不確かだった。
その内、あの晩を思い出したように、奈緒美は笑い出した。そして、ハイヒールを蹴り捨てるように脱いだ。
 叩きつけるような雨が二人の歳月と傷を洗い流した・・・。
奈緒美は毅の身体にしがみついて、一緒に坂を上って行った、雨に煙る街を後にして。
奈緒美は言った。
「京都に来たのはね、あなたを取り戻す為だったの」
毅は答えた。
「そうか。じゃあ、目的は果たしたことになるね」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み