第104話 優香、社長夫人に呼び出される

文字数 1,157文字

 中野優香は京呉服「たつむら」の社長夫人龍村綾乃に呼び出されて、京都木屋町三条を一筋下がった小態な料亭の一室へ入り、敷居際に手を突いて座った。顔色が緊張で蒼ざめていた。
「此方へ入って頂戴」
綾乃が促すと、優香は前へ進み出て、食卓を隔てて彼女と向き合った。
「歯に衣着せずに言わして貰います。“七時にいつもの処でお待ちしています”、あのメモは一体どういうのですか?」
「・・・・・」
優香は俯いたまま何も言わなかった。
「あの人の不用意さにも呆れるわ。お茶屋の請求書の袋の中に逢い引きのメモを入れたまま、放り出して置くんやから」
「・・・・・」
「こんなことは今度が初めてと言う訳や無し、あの人の持病みたいなものですから、あたしは慣れっこで、格別びっくりしている訳でも無いんですよ」
優香の唇の端が微かに震えた。
「今までの例でも、直ぐにカッとなって、直にケロリとして、拍子抜けするような終わり方をするんです。でも、あなたは素人のお嬢さんやし、あたしも責任を感じますからね」
「わたくし・・・メモなんかお渡ししなければ良かったんです」
優香が低い声で言った。
「メモなんかの問題じゃないでしょう!」
綾乃が声を高くした。
「肝心なのはあなた達の関係でしょう!」
「でも、わたくしが軽率だったんです。直ぐに破棄して下さい、って言ったんですけど・・・」
「破ったって、捨てたって同じですよ。証拠が無くなれば良いという問題じゃないでしょう!」
「でも、奥様の眼に触れなければ、そんなにお気持を傷つけなくても済んだんです」
「真実のことを言うと、もうあたしはあの人に愛想を尽かしているのよ。何処が良いんですか、あんな人・・・」
「仕事をしていらっしゃる社長さんしかわたくしは知りません。仕事に打ち込んで居らっしゃるあの方は素晴らしい方です」
「えっ?」
何を言っているの、この人は?という貌で綾乃は優香を見やった。
「あんな魅力的な頼もしい方のお傍で働いて居たら、誰だって尊敬するし愛情を抱くようになると思います」
「それじゃ・・・それじゃ、あなた、高之と結婚すれば良いわ、いつでも熨斗付けて差し上げますから」
「そんなこと、考えたこともありません。社長さんはわたくしのことを心にかけて下さっているとしても、奥様やお子様を愛されるお気持とは全く別のところで考えていらっしゃるんだと思います」
「まあ・・・」
綾乃は呆れかえったような眼で優香を見詰め、蹴るように座を立って部屋を出て行った。
 
 数日後、優香は会社を辞めて東京へ移住した。が、それは全て社長の龍村高之が取り計らったことであった。東京の日本橋には「たつむら」の支店が在った。業界と一緒にじり貧だった京呉服“たつむら”を和装小物や洋装とのコラボで今日風な経営に改めて成功させたのは婿養子で社長の龍村高之だったのである。
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