第58話 「駄目、駄目!そこは駄目よ!絶対に!」 

文字数 1,353文字

 一カ月後、良彦がマンションに戻ったその瞬間に、まるで帰り着くのを待ち構えたように、山村智香子嬢からメールが届いた。
「正月に撮って貰った写真は凄く素的だった。週末から三日ほどBMWで東京に行くから、都内のあれこれをバックに写真を撮って欲しいの。着いたらホテルから電話するね」
その予定日はと言えば、それはもう明日なのであった。
 翌日、良彦は都内某ホテルへ駆けつけてBMWで上京して来た智香子嬢を出迎えた。
が、智香子嬢は目立ち過ぎた。白いBMWだけでなく本人そのものがBMW並みに目立つのである。特別に派手な姿と言う訳ではないのだが、裕福な家の娘と言うのは人目を引く。顔の肌からしてが、新鮮なゆで卵の剝きたてみたいにつるつるに光っていて、リッチ感を漂わせている。そんな娘を一日だけでなく二日も三日も見続け、会い続けていれば、余程鈍感な男でない限り気持が動揺して来る。
 三日間の都内見物の間、智香子嬢は飽きることも無く隣に座って、家の話や友達の噂話、デパートや名店街のサンドウィッチ、魔法瓶入りのコーヒー等々の話題で良彦の気を引き立てた。
そして、愈々最後の晩に、良彦がホテルまで送ろうとすると、智香子嬢は車を千鳥ヶ淵の桜並木の下に停めて、何か言い澱んでいる風情をした。
「あのねえ」
「うん?」
「・・・・・」
「うん?」
「私、このまま帰るの、嫌だ。このままじゃ帰れない」
俊彦が見ると、運転席の智香子嬢はぽおっと上気した瞼を閉じ、頭をゆったりシートにもたせ掛け、思いなしか、唇を尖らせて何かを待って居る気配である。
良彦は思わず引き寄せられるように、自分の唇を彼女の唇に合わせた。熱で乾いた二人の唇がカサカサと触れ合った。だが、こんな金持のお嬢様と何処まで進んで良いのやら、良彦は迷った挙句、もう一度、カサカサカサと唇を擦り合わせただけで身を引いた。途端に智香子嬢はぱっちりと眼を開いて、言った。
「キスってこんなものなの?みんな素的だ、素的だ、って言うから、どんなに素晴らしいのかと思ったのに・・・こんなものなの?」
良彦はもう堪らなくなって、智香子嬢をしっかり抱いてもう一度キスしようとしたが、ハンドルが邪魔になって思うようにいかない。と、智香子嬢が手をすう~っとレバーに伸ばして座席を斜めに傾け、そのまま二人はBMWの豪華で弾力溢れるクッションに包まれて深い深いキスをした。やがて智香子嬢がうっとりと漸く夢から覚めたような声で言った。
「良かったぁ。溶けちゃいそうだった・・・」
そして、もう一度、良彦にしがみついて来た。抱き着かれた良彦は慌てふためいたが、直ぐに、二人はしっかりと抱き合った。流石の智香子嬢も恥じらいに貌を上気させて良彦の胸に顔を埋め、その心臓の高鳴る鼓動がそのまま良彦の胸骨に共振した。彼は智香子嬢の熱に火照る全身をしっかりと己が肉体に感じた。肩から胸、胸から背中、背中からヒップ、そして、とうとう蜜の溢れる秘所に手を伸ばした時、彼女は急に身体を固くして叫ぶように言った。
「駄目、駄目!そこは駄目よ!絶対に。お嫁に行けなくなってしまう!」
その言葉を聞いた瞬間、良彦の身体は何処からともなく力が抜け落ちて、萎えて行った。
翌日、智香子嬢は目出度く故郷へ帰って行き、良彦は自分でも訳の解らぬ深い溜息を吐いた。 
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み