第102話 日高、妻と離別する

文字数 2,650文字

 夏のバカンスの最後の日、日高達夫は一カ月だけ借りたビーチ・ハウスでひとり横たわって、海の音に聴き入っていた。彼はじっと耳を澄まして、波は砂浜のどの辺りまで寄せて砕けているのだろうか、と考えていた。
車のドアが三回、バシンと鳴る音がした。
子供たちが家に入って来る気配がした。男の子の甲高い声と何かを強請っている女の子のキンキン声。眼を閉じて静かに横たわっていると、今度は妻がキッチンに入って来る気配がした。
 明日の朝になったら都内の自分の事務所に出向いて、これまでいつも休暇明けにしてきたことをしようと、と日高は思った。彼の仕事は、色々な広告代理店の依頼に応じて、組絵を考案したり、イラストを描いたり、それらにコピーをつけたり、時として、版下を作ったりもすることだった。近頃では映画の絵コンテ作りやCMソングの作詞まで手掛けるようになっている。マルチプルに才能が有り腕も良い方だったし、仕事が速くセンスに溢れ、仕上がり度が高くて概ね好評だった。彼はずっと昔、画家になることを夢見て美大に通ったことが有ったのだ。
ざらざらしたベッドに独り横たわりながら、その夢をチラッと思い出した。キャンバスに描いた厚塗りの手触りや、ワックスとカゼイン膠で筋目をつける効果のことを思い返しながら、彼は煙草に手を延ばし、一本をじっくり吹かして、古い夢を頭から追い出した。
 やや有って、家の中に戻ってきた妻が寝室のドアを開けた。
「わたしたち、行くから」
日高は黙って居た。
「行くわ、って言っているのよ」
「今週中に電話するよ」
「それだけ?子供たちにサヨナラは言わないの?」
「ああ、良いよ」
さっと背中を向けるなり妻は出て行った。
 
 彼女の怒りは、前日、子供達と一緒に浜辺で昼食を摂った時から徐々に醗酵していたのだった。その時、近くにビキニ姿のグラマラスな若い娘が居た。日高は彼女をじっと眼を凝らして見つめ、頭の中の画用紙にスケッチを試みた。見えない木炭が彼女の腰からヒップの双丘にかけての三角の線を描き、思い切った弧を描いて信じられない程に成熟したヒップの線を捉えた。彼女の肌は小麦色に輝き、オレンジ色のビキニが鮮やかに映えていた。小さめのバストとは対照的なヒップは、ボウリングの球を半分に割って二つに並べたようだった。彼女自身、自分のそう言う容姿を完全に意識して動いていた。きっとダンサーか運動選手だろう、と彼は思った。
「いやらしい、ったら有りゃしないわね、その眼つき」
妻の声が冷ややかに言った。
日高が答えた。
「否、俺はいつも冷静な眼で女性の肉体を見ているんだ」
彼は説明した。
「何遍も言っているじゃないか。俺は画家になる教育を受けたことが有るんだ。肉体と言うものを美学的に見る癖がついているんだよ。肉体と言うもののプロポーションや面や量感と言うものを俺は観るんだ。それに、俺は見るだけで変な行為に及ぶ訳じゃない。俺にとって女性は画廊の絵みたいなものだ。俺は芸術家だったんだ、忘れたのか?」
「あきれた芸術家も在ったもんだわ」
フン、と鼻を鳴らして子供たちの手を取ると、妻は浜辺を遠ざかって行った。
その場に残った小高は、魔法瓶に入れて来たウイスキーのロックを呑みながら、もうあいつと暮らすのはうんざりだ、とつくづく思った。
俺は自分の生き方を変えてまで、あいつを幸せにしてやろうとした。俺は見果てぬ夢を捨てて、下らない仕事を熟して来た。それも皆、あいつに人並みの暮らしをさせる為だった。家庭を作り、子供を育て、この湘南の海で夏のバカンスを楽しむ為だった。それが、ちょっとセクシーな若い女の身体を眺めたからと言って、ああまで毒づかれるとは・・・
 
 車のドアがバタンと閉まる音がする。諍い合う子供たちの声も波の音に掻き消されて微かにしか聞こえない。エンジンが唸り、タイヤが小石を撥ね上げて、車は走り去った。
日高はふう~と煙草の煙を吐き出した。白い壁を後ろにふんわりと浮かんだ紫煙の輪を眺めながら、今、あいつは何を考えているのだろう、と思った。子供たちを後部シートに座らせ、怒りに眼を引き攣らせてハンドルを握りながら、高速道路を飛ばしている彼女の姿が脳裏に浮かんだ。すると、嘗て二人で鳥取へドライブ旅行をした時の記憶が、ぎらつく真夏の太陽に炙られて砂丘を突っ切って旅した記憶が、蘇えった。

 あの旅の途中、日高は何とか妻に自分を理解して貰おうと努めた。当時は未だ子供も生まれていなかった。車を運転しながら彼はしきりに話し掛けたのだが、妻は眼前に広がる風景に眼を据えて真面に聞こうとはしなかった。
この俺と言う男はどういう人間か、せめてそれだけでも理解して欲しい、と彼は思った。
俺はお前に、この俺と言う人間を丸ごと預けよう、その俺を受け止めることが出来たら、お前も俺にお前と言う人間を丸ごと預けてくれないか、俺はお前の肉体とではなく、お前という人間と寝たいのだ・・・
が、妻は彼をチラッと見ただけで、直ぐに話題を日常生活のあれこれに切り替えてしまった。それは、そんな話は今更もうしたくないの、という彼女の意思表示だった。それっきり、温泉宿に着くまで、彼女は口を利かなかった。
 
 日高はゆっくりとベッドから起き上がった。茹だるような暑さの外を窓から見遣りながらひげを剃った。去年の夏季休暇には何をしていたのだろう、来年のバカンスには何をしているだろう、と考えた。冷蔵庫を開けるとウイスキーの小瓶の最後の一本が入っていた。ストレートで一口呑んで、口中を漱いだ。それから、スーツケースに荷物を詰め、窓とドアに施錠して鍵を管理人に返しに行く。外へ出ると焼けつくような暑熱で朝靄は消えていた。
 車を運転しながら、東京へ戻ったら直ぐにマンションを捜さなければ、と日高は思った。養育費や慰謝料を払わなければならないから、あまり家賃の高い所は無理だな、出来れば渋谷辺りにしておこうか・・・そして、ベッドとテーブルと椅子を買う。これまで妻と一緒に買い揃えて来たものを、また最初から揃えて行かなくてはならない。トースター、ナイフ、フォーク、箸、カップ、皿、テレビ、ステレオなど、など、など・・・
 MGが一台、小柄なボディーに不敵な表情を漲らせて追い越して行った。助手席には、黄色いスカーフで髪をきっちり巻いたあのグラマラスな女性が座っていた。ハンドルを握っているのは、頬にも顎にも髭を生やした中年の男だった。日高は、見る見る遠ざかって行く車の後姿に手を振って別れを告げた。
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