第84話 今なら、あんな酷いことは決して出来はしない

文字数 1,125文字

 山崎は山茶花を見ていた。こんなに大きな木だったかな、と思った。
その枝頭に白い花が咲いていた。晴れた日にはそれほど目立たない淋しげな花であるが、曇り空の下や小雨の日には、花の在る一角だけが仄かな明るみに包まれて、あっ、山茶花が咲いているな、と思わせる。
然し、山崎には、今まで、こうしてしみじみと山茶花を眺めた記憶は無かった。忙しくて花どころではなかった。山崎は今、社員四千人、年商二千億円、東証一部上場企業の社長で、日々の関心は、会社の経営にしか向いていない。風流などという世界とは疎遠であった。酒は飲むがタバコは喫わず、勝負事も一切せず、女に振り向くことも無かった。仕事一筋のワンマン経営者だった。
 山崎は直ぐに山茶花に見飽きた。ガラス戸の厚手のカーテンを閉め直して、ソファーにどっかりと腰を下ろした。
山崎は顔を曇らせた。嘗て子供まで孕ませた細田純子が今の歳になって未だクラブのママをしていると言う。
あの時は、将来も現状もよく見えていない若造だったから出来たことだ。今なら、あんな酷いことは決して出来はしない・・・

 二十五年前、山崎は社長の一人娘である相田翔子に見染められ、社長直々に娘の婿にと望まれた。山崎にとっては思いがけない幸運の舞い込みであった。 
翔子と結婚することは将来の社長の椅子を約束されたも同然であった。大いに気持が動いた。それに、何よりも、訪れた幸運を逃がすには忍びない思いが山崎の胸にどっと溢れた。
 交際っていた細田純子との関係は二年近くの時を経て惰性に流れていた。最初の頃は、逢う度に新鮮さもあり、ときめきもあったが、時を経るに連れて、ただ漫然と会い、食事をして酒を飲み、そして、身体を重ね合う日常の中へと、二人は埋没して行った。山崎には純子を思う気持ちが次第に薄れて、愛する心も急速に冷えて行く気がしていた。
 山崎が純子と別れることを決心したのは、純子から妊娠を打ち明けられた時である。山崎は翔子の父親から最終決断を迫られて、はっきりと決心がついた。
今だ!手切れの機会だ!・・・
直ぐに、純子に子供を堕ろさせた。誰にも知られずに首尾よく子供の始末がついた時、まるで憑き物が落ちたように純子から心が完全に離れていた。その後、どう言い包めて純子に別れ話を承知させたのか、山崎ははっきりとは覚えていない。
 純子は何も言わなかった。抗うこともせず、山崎の一方的な別れ話の裏を探ることもしなかった。ただ唯、泣きに泣いた。気が狂うのではないかと山崎が怯えるほどに泣き続けた。純子の狭いマンションの部屋で、狂気の泣き声に耐えながら山崎はその時、ひたすらに、もう少しの辛抱だ、もう少しでこの修羅場から逃げ出せるのだ、と、それだけを思っていた。
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