第72話 暫くして、茉莉の生活態度が変わり始めた 

文字数 1,643文字

 暫くして、茉莉の生活態度が少し変わり始めた。
晴れた日には物干し竿に洗濯物を吊るしたり、夕方にはそれを取り込んだりする姿が見られるようになったし、台所に母親と並んで立って料理を手作りする茉莉が居たりするようになった。近くのスーパーで肉や魚や野菜等の食材を買ってレジに並ぶ姿も間々見られた。
そうして茉莉は、思うこと、感じること、観るもの、聴くもの、それらを率直に頭と心で音にして五線紙の上に載せて行くようになった。
 茉莉は音大に通った三年間で、楽式論、和声法、対位法、楽器法、管弦楽法等々の曲作りや演奏法の基礎をほぼ習得し終えていたので、専ら習作とその編曲に打ち込んだ。そうすることで茉莉の心は少しずつ解き放たれて行くようだった。
 私にとって音楽って何なのだろう?と茉莉は考えた。
それはひょっとして「希望」なのではないか?希望への私の「祈り」なのではないだろうか?
自分の中に閉じ籠った内向きの思いだけで今を生きている私が、心を外に開いて、もう一度、明日に向って前を向いて歩きたいという思いを、自身の中で確認出来るのが音楽なのではないのか?壮大で神々しいクラシックとまでは言わないにしても、やはり音楽は「希望」であり「祈り」なのだ、と茉莉は思った。それが音楽の音楽たる所以なのかも知れない・・・茉莉は一つの啓示を受けた気がした。
頭で音を拾うのは絶対音感が有ればそう難しいことではない、まして不自由なのは片耳だけだ。だが、それを音楽として紡ぎ出すのは心の在り様ではないか?
そう思ってこれまで創った幾つかの曲を総ざらいしてみた茉莉には、それらの曲の全てが、今の心を映してか、何れも是もが重く暗く打ち沈んでいるように感じられた。この楽曲の何処に希望や祈りが有るだろうか?
妬んだり怨んだり、憎んだり嘆いたり、憤怒や情けなさに打ちひしがれることはこれからも間々あるだろう、だが、自分は片耳が聞こえないというハンディがあるのだから、それは仕方無い。在るが儘を受け入れて、其処から自分なりの新しい楽曲を紡ぎ出して行こう、・・・茉莉は心を外に開いて、感じるまま、思うままを音に託そうと心に決めた。もう一度、曲作りを一からやり直してみよう・・・
 それから茉莉は習作ではなくひとつひとつ完成曲を目指して集中した。茉莉が最初に選んだテーマは、「出発~旅立ち~」だった。誰にも出来ない、自分にしか書けない楽曲を創りたい・・・そして、最後は感覚、心の音感だ、と茉莉は悟った。
やがて、相当な量の譜面が出来上って行った。そして、編曲のやり方一つで楽曲の持つイメージはがらりと変わった。編曲がその曲のイメージを決定付けると言っても過言ではないように思われた。茉莉は来る日も来る日も曲創りとその編曲に勤しんだ。
 或る日、謙一が言った。
「俺は文学者でもないし哲学者でもない。だから人が生きて行く上での在るべきモラルや倫理など、そんな難しいことは解からない。だが、人間ってのは、誰しもが皆、悲嘆、挫折、絶望、憤怒、或いは、忍耐、許容、意地、誇り、希望、再生、そんなものを胸の中一杯に溜め込んで生きているもんだ。それは言葉なんかでは一括りに出来ないもっと深くて重いものだろうけど、な」
「そうね、あなたの言う通りだわね。人間は皆一人ひとり自分の過去を背負って生きているのよね。その過去がどんなに辛くて苦しいものであっても、それを消し去ることも無くすことも出来はしない。今日という日は昨日までの過去の上に成立っているんだし、それはその人本人だけのものだから、過去が消えてしまえばその人の存在そのものも消滅してしまうことになるのね」
「人生はぬかるむ夢のようなものだが、時折、陽も差すだろう、そう思って生きて行くしか無いだろう、人は皆、心の中に重い澱のようなものを抱えて歯を食い縛って生きている。俺もお前も、この先、アイデンティティをしっかり持ってやって行こう、な、茉莉」
 見上げた夜の空には、数え切れない小さな星がきらきらと瞬いていた。
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