第46話 裕次と真知 

文字数 2,104文字

 裕次が仕事場に隣接した食堂に入って行くと、真知がテーブルに座って塩茹でした落花生の殻を割っていた。隅の冷蔵庫の扉を開けて自分のペットボトルの水を一口飲んでから、裕次は真知に声を掛けた。
「いつまでも暑いですね」
「そうね。しつこい残暑だわねぇ」
応えながら、真知は豆の入った小鉢を差し出して裕次に勧めた。
「どう?ちょっと食べてみない?美味しいわよ」
裕次は差出された小鉢から二粒、三粒を摘まんで口の中へ放り込んだ。
「こりゃ旨い!なかなかいけますね」
「でしょう。ビールにぴったりなのよね。父の大好物なのよ」
それから話題を替えるように訊ねた。
「仕事はもう終わりなの?」
「親方が、切りの良いところで今日は終いにしよう、っておっしゃるので」
裕次は、窓の向こうに拡がる空き地に眼をやった。乾いた土とその先の家々の屋根や壁に西陽が紅く照りつけている。
「未だ明るくて帰るには早過ぎるような気もするんですが」
裕次はそう言いながら冷たい水をもう一口飲み込んだ。
「その後、身体の具合は如何です?」
裕次は腰を屈めて真知の顔を覗いた。
真知は親方の娘で日本橋の呉服問屋に嫁いでいたが、身体の調子を崩して実家に養生に帰っていた。と言っても、寝込むほどの病人ではなく、気分の良い時には家の仕事を手伝ったりしていた。裕次や他の職人たちは、真知は心の病、鬱病だろうと思っていた。
 真知は裕次より一つ歳上で、裕次が十八歳で錺簪師の「亀甲堂」へ内弟子として住み込んだ時には、輝くように若くて健康な大学生だった。元気の良い口をきき、十人並み以上の容姿で颯爽と闊歩していた。真知が二十四歳で嫁に行った時には、裕次は家の中から不意に明るいものが消え失せた気がしたことを憶えている。
今、二十八歳になった真知は娘の頃よりももっと綺麗になっていた。肌が抜けるように白く、身体の線も硬いものがとれて胸も腰も艶めかしくなっている。だが、その美しさは何処かに痛々しいものを感じさせた。
真知は余り口数を話さず、家の手伝いをしている時も静かに振舞っていた。
「それが、余り良くもないのよ」
真知は俯いたまま答えた。
「見たところは、病人には見えませんがね」
「見掛け倒しよ、この程度のことをしても、直ぐに疲れるんだから」
真知は顔を上げて微笑み、それから、唐突に言った。
「裕次さんの処は幸せね」
「どうしてですか?」
「裕次さんも奥さんも丈夫で、一生懸命に働いてさ。独立して自分の工房を持とうって意気込みなんでしょう。裕次さんを見ていると羨ましくなって来るわ」
「なぁに、今に真知さんだって健康を取り戻しますよ。そうなって戻って来るのをご亭主が首を長くして待って居られますよ、きっと」
「待ってなんか居るもんですか・・・」
真知は小声でそう言うと、又、俯いて落花生の殻を割り始めた。
心の病は長引くと言うからな・・・
裕次は「亀甲堂」を出て駅への道を歩きながら、真知のことを考えた。昔の真知とは違う別の女性と話して来たような気持が残っていた。
人間はなかなか思うようには行かないもんだな・・・
真知は裕次が「亀甲堂」へ入った頃には何の不自由もない娘時代を過ごしていた。そして、錺簪の仕事と繋がりの有る呉服問屋の長男と結婚した。その侭、呉服問屋の嫁でずうっと行く筈のところが結婚して二年ほどが経った頃から身体の調子が悪くなった。子供も生まれず、今は実家に帰されている。
由紀の奴もあまり長く働かせちゃおけないな・・・
妻の由紀は結婚した後もそのまま仕事を続けている。三、四年は共働きで金を貯め、裕次が独立して自分の工房を持てるまで二人で頑張る心算でいる。然し、働き過ぎて身体を壊しちゃ元も子もない、いつまでも働かせておいちゃ由紀が可哀そうだ、と裕次は思った。

 妻の由紀が突然の交通事故で呆気無く他界してからもう半月になろうとしていた。
由紀の死は裕次に大きな喪失感を齎した。心の中に不意に大きな穴が開いて、その暗い穴
を今まで感じたことの無い虚ろなものが吹き抜けるのを感じた。かけがえの無い大事なも
のを失った悲嘆と寂寥の喪失感に苛まれた。裕次は三年の間、変わること無く由紀を心の
底から愛して来た。由紀への愛しさが胸一杯に拡がった。
裕次は底知れぬ寂寥の思いを酒に紛らした。
午前零時を廻って雪が舞う寒い冷たい夜だった。
裕次は川に架かる橋の袂で蹲り、欄干を背に両足を前に投げ出してぐったりともたれかかっていた。
暫くして一台のパトカーが橋の袂に停まって二人の警察官が降りて来た。
裕次は名前や住所を聞かれてもむっつりと押し黙って答えなかった。警察官は半ば押し込むようにして裕次をパトカーに乗せた。
一晩留め置かれた裕次は、翌朝、こってりと絞られて調書を取られた後、身元貰受人となってくれた親方と真知に付き添われて警察を後にした。親方も真知も何も言わなかった。黙って裕次をマンションの部屋まで送ってくれた。
 橋の袂で蹲って警察に連れて行かれてから一週間が経った。だが、裕次は働く気にはなれなかった。こんなことをしていちゃいけない、と思いはしているが、働いて何になる、という気もしていた。裕次は毎日ベッドの中でゴロゴロしていた。
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