第69話 達哉はずっと時を駆って生きて来た

文字数 1,704文字

 確かに、人間は誰しも早産という形で、謂わば、未完成のままこの世に生まれ出て来る。他の哺乳類のように、生まれて直ぐに自らの脚で立つことは出来ないし、その生命の維持の為には、そもそもが他者による介助を必要としている存在である。ということは、自己というものは、どのような他者の他者であり得ているかということによって決まることになる。自己の存在が危機に瀕するのは、自己が如何なる他者の意識の宛先ともなり得ていない時である。居ても居なくても他者に何の影響も及ぼさない自己、そのような存在は無きに等しい。愛情や好意の対象でなくとも、憎しみの宛先でさえあっても、ひどく鬱陶しい対象であっても、それでも他者が無視出来ない存在として自己が在るときには、自己は存在する。如何なる他者にとっても関心の対象ではない存在になったとき、最早、見捨てられる存在ですらなくなった時、人は自己を喪う。
自分がこれをすることの意味、或いは、自分が此処にいることの意味への問いは、折にふれて浮上して来る。然し、それは他者が見出してくれるものなのだろうか?
 達哉は思う。
なるほど、自己というものは確かに、幼い頃から他者との差異を一つ一つ確認する中で象られていくものである。大人と子供、男と女、教師と生徒、敵と味方等々、色んな区分けの中でそのどれかの場所に自己を位置づける。その中で自己の性向もはっきりして来る。然し、他者の他者としての自己の存在を突き詰めても、「自己」というものの一つの「類型」にしかたどり着けないのではなかろうか?重要なことは、人生のどの段階にあっても、自己の存在が絶対的に自分の中で確認され認識されることではないのか?達哉は、他者という存在を介しての自己存在感は、相対的なものでしかないであろうと思う。
 他者を介して獲ち得られる相対的な実在感というものは際限が無く、自己の存在感への渇望と飢餓感は果てし無いのではないのか、そんな不確かな手応えではなく、自分独りきりの謂わば自己完結型の絶対的な自己存在感を俺は獲ち得たいのだ。他者を通しての相対的な自己存在感の確認ではなく、自分自身の中での燃焼感や没頭感や陶酔感を手掛りとしての絶対的な自己存在感の自覚を追い求めて来たのだ、と達哉は改めて自己認識した。
間抜けた惨めな絶望感や一切の不安が解消され、自己の内部の真実が絶対疑われない世界、自己の本質と自分自身とを信じ、居心地の悪さも無く、一人ぼっちの彷徨も無く孤独の恐怖も無い魂の正規の世界、他人に裁かれることも無く、他人に掻き立てられる自意識も消えて自己の中に潜り込める自由の世界、魂の真実の世界、それこそが俺が追求して来た絶対的な内実の自己存在感だ!・・・
 
 達哉はこれまでずっと時を駆って生きて来た。然し、消失の経験、離別の経験こそが時の移ろいを浮き立たせる。自分にとって無くてはならないもの、大切な人、そういうものが自分からむしり取られてしまうという痛い経験の中で、人は何かの不在を思い知らされ、時の移ろいを感じ入ることになる。消えたものへの思い、そこに時は訪れる。そして、人は生きている間は、時の外には立てない。時は、時を感じる自己の中を貫通しているものである。岸辺すら見えない揚子江の滔々とした川面に漂うように、人は紛れも無く時の中に在る。時を区切るそのきっかけが外から訪れることはなかなか無い。だから、だらだらといつになっても終わらないで、人は苛々する。人が時の外に出るのは死して後かも知れない。自己が、否、この現実世界がばらけて行って一枚の絵になったとき、現実世界は自己にとって意味の有ることばかりが充満していながら、然し、何処か不気味な光景として現れて来るのであろう。

 達哉は無性に淋しくなって来た。誰かに会いたいと思った。否、誰かではなく皆に、これまでの二十二年間の人生の中の一期一期の時に、遭遇し巡り会って、何がしかの影響を達哉の人間形成と生き様に与えた総ての人に会いたいと思った。が、此処は救急治療室であった。
 達哉は苦悶の表情を顔面に浮かべて、誰に看取られることも無く、独り、二十二年間の人生に幕を閉じた。 
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