第52話 1~3月は途轍もなく忙しかった

文字数 1,242文字

 大学では毎年の年中行事であるのだが、初めての俊彦にとっては、一月、二月、三月は途轍もなく慌しく忙しい時期となった。卒業論文、修士論文、学年末試験、大学院入試、卒業面接、それらと殆ど重なり合っての入学試験という大行事とその採点、将に大苦行の連続であった。その上、卒業式に謝恩パーティまであって、教授や助教授たちは振り袖姿の若い女の子に囲まれて至って上機嫌であるのだが、俊彦にしてみれば、結局のところは、縁も所縁もない他人が良い気になって浮かれているのに付き合うだけで、是も月給のうちか、と心に呟くほかなかった。
 その間、井川加奈とは、無論、毎日仕事で顔を合わせてはいたが、外でゆっくり食事をしたりすることは出来なかった。正月明けの初出の日に故郷の土産を手渡して二人で遅い正月を祝ったくらいである。
「うちの町で通用する三種の神器と言うのはね、謡に盆栽に茶道具なんだ。何しろ、殿様が代々、皆、武張ったことが嫌いな人ばかりだったものでね。全く付き合っていられないんだけれども、これが又、付き合わない訳にも行かなくてね、故郷へ帰ると・・・」
「それでお帰りがぎりぎりになったんですね。わたし、二度ばかりマンションへお電話したんです、お話したくて」
「えっ?」
「お正月にマンションで一人閉じ籠っていて、無性に寂しくなったんです、それで・・・」
淋し気に俯いて話す井川加奈の姿に俊彦の心が少し震えた。
薄い橙色のレストランの灯の下で、彼はテーブルに置かれた井川加奈の手に自分の掌をそっと重ねた。
 然し、俊彦の毎日は手一杯の学年末スケジュールに追い立てられる日々であった。
研究室の会議、内外の打合せ、懇談、講義、指導、発信、受信、通話、眼を通すべき資料や報告の山・・・。
マンションの一室で朝に眼覚め、立ったままトーストを咥えてネクタイを結び、コーヒーをがぶ飲みして出かければ、夜そこに戻るのは深夜となり、眠る前にベッドの中でシェークスピアの一ページでも拾い読みするのが関の山だった。普通なら井川加奈のことなど日々押し寄せる重要事や雑事のうちに雲散霧消してしまう筈であるが、だが、手を重ね合わせて以来、そうはならなかった。
 毎日否でも応でも顔を合わせてしまうのがいけなかった。彼女のことが心に引っ掛ってすっきりしなかった。研究室に入って自分の席へ向かう時に、片隅に座っている井川加奈が眼の端に入って来て、ああ居るな、と思ってしまう。小さな研究室だから職員は皆、一人何役かで、俊彦が記した下書きをパソコンに入力して校閲に持って来るのも彼女であった。が、その度に、子供っぽい横顔の頬の膨らみについ眼が行ってしまうし、内容の訂正の為に顔を突き合わせたりすると何やら息苦しくなってくる。
俊彦は慌しく忙しい時間をやり繰りしつつ二、三週間に一度ほど、彼女を誘って食事をしたり酒を飲んだり、郊外へ出たりした。彼女も黙って従いて来た。
やがて研究室の学年末行事もどうやら終わり、年度替わりの仕事にも片がついて三月の末になった。
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