第98話 嶋木は無気力に惰性で暮らした

文字数 603文字

 リングに上がれなくなったことで、嶋木は何か掛け替えの無い大きなものを喪失した感覚に捉われた。何をしても虚ろで空しかった。明るく熱したあのボクシングの世界に在った緊張や燃焼、高揚や充実、光輝や陶酔など何処を探しても皆無だったし、何をしてもその意味を見出せなかった。嶋木は次第に何をすることも無くなり、無気力に惰性で流されるままに時を過ごした。何をしても何を見ても虚ろで空しく、いつしか、嘗て慄いた不安や焦燥にも鈍くなって、自己の存在感さへ求めなくなってしまった。ただ時の流れるままに無気力に周囲に流されて惰性で暮らした。
 大学二年になった時、友人の後藤が言った。
「お前、いつまでもそうやって塞ぎ込んでいても仕方無いだろう。大体、人生だって人間だって、常にいつも何日も燃焼して高揚して、輝き続けているなんて在り得ないんだぞ。生きる意味や自分の存在感なんてまるで無くったって、人は皆、何とかそれを見つけ出したいと懸命に必死で生きているんだ。アルバイトでも何でも良いから、兎に角、何か始めて見たらどうだ?」
嶋木は店頭の求人広告を見て今の店にバーテン見習いとして雇われた。
後藤が「何もお前、いきなり、そんな怖い世界に飛び込まなくても・・・」と心配したが、既に八年の歳月が流れ過ぎた。
 俺も、生きる輝きを、もう一度、取り戻さなきゃあ、な・・・
嶋木は今し方の健気なクラブ歌手を思い起こして、自分の胸にそう言い聞かせた。
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