第42話 早希、細川に抱かれる 

文字数 1,192文字

 四月中半過ぎの土曜の夜だった。閉店の少し前に細川が入って来た。
「此処で和泉理恵さんと待ち合わせなんですよ」
何となく憂鬱そうに言って、店の隅に腰を下ろした。
が、閉店の十時になっても理恵は来なかった。
コーヒーを飲んでいた細川が不意に言った。
「ドライブしませんか?夜の桜を観に行きましょう」
「桜はもう終ったわ」
「咲いて居る処も在りますよ」
時計を見た。十一時になろうとしていた。
「理恵、来るかも、よ」
「来ませんよ、もう」
細川が立ち上がって、早希の肩に軽く手をかけた。
「一時間ほど付き合って下さい」
断わる心算だったのに、早希は頷いていた。夜の花見も悪くないと思った。
店の前に停めてあった車に並んで腰かけた。
青山から渋谷を抜けて、池尻から高速へ出た。
「何処まで行くの?」
毎日が、マンションの中の我が家と喫茶店との単調な生活である。夜のドライブは開放感が在った。
「花の咲いて居る処まで」
細川の声は弾んでいた。
何方もアルコールは入って居ないのに、浮き浮きとした気分だった。ドライブも時として人の心を酔わす。
東名高速に出ていた。
「遠出過ぎるわ」
「成田から思えば、どうってことないですよ」
細川が口笛を吹いた。
スピードが百キロを超えていた。
「パトカーが来るわよ」
「気を付けているから大丈夫だよ」
適当に走ると八十キロに落とし、更にまた、百キロに上げる。
早希は陶酔に似た感覚の中に居た。帰る時間を気にする必要も無かった。
御殿場のインターチェンジで高速を下りた。
 この辺で引き返すのか、と思っていると、車は脇道へ入り、急に停まった。
細川がゆっくりと躰の向きを変え、早希を抱いて口づけをした。早希はされるままになっていた。彼のキスは役者のそれらしく技巧的だった。醒めている心算でも早希はその後、次第に陶然として来た。
「二時間ほど休んで行きましょう」
細川が躰を抱いたまま囁いた時も早希は自失の境地に在った。
 車はそのまま進んで一軒のモーテルに入った。
早希が突っ立って居ると、細川がポケットからウイスキーの小瓶を取り出して口に含み、それを口移しに早希の口の中へ流し入れた。これは早希にはちょっとしたショックだった。二回、三回と繰り返されて早希は恥も外聞も失くして行った。ベッドに倒れ込んで、それでも僅かに残っていた自意識で、辛うじて、言った。
「灯りを暗くして・・・」
帰りの車の中で、早希の心には、親友の恋人と出来てしまった後ろめたい呵責の念とそんなことをしでかした自分への嫌悪が沸々と湧き上がって来た。
「後悔しているの?」
細川が訊ねたが、彼女は返事をしなかった。
彼はどういう心算で私なんかを抱いたのだろう?遊び相手なら幾らでも良い女が居るだろうに・・・
「今夜のことは無かったことにして、お互いに忘れてしまいましょう。もうこれ切りにしましょう、ね」
早希はそう強く念を押して、店の前で車を降りた。夜はもう明けかけていた。
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