第131話 沢木が仕事のことで思い悩む時間は少なくなった

文字数 1,857文字

 入院七日目に沢木は漸く一般病棟へ移ることになった。朝の検診で担当医師が言った。
「点滴は全て今日で終わりです。後で一般病棟に移って頂きます。上手く行けば今週末に退院できる予定です」
そして、その日からリハビリが始まった。
 夕方になって営業部次長の安田が見舞いと業務報告に病室を訪れた。
「いやあ、思ったよりお元気そうで何よりでした」
安田は腰を低く折って慇懃に沢木に笑顔を向けた。
「君にはご苦労を懸けて申し訳無いね。仕事は支障無く運んでいるんだろうね」
「はい、今のところ問題無く進んでいます。部長がお膳立てと根回しをされていた例の案件も動き始めました。これで念願の大きな新規の得意先との取引が一つ始まります」
「そうか、あれがスタートしたのか」
沢木は自分が種を撒き育てようとしたものを、その美味しい果実だけを安田に持って行かれたように思って胸が少しざわついた。
「あっ、それから、わたくし、昨日付けで人事部から部長代理を命じられました。部長がお休みになって居られる少しの期間だけということでしたが・・・」
「そうか、それは良かった、僕も安心して療養に専念出来るよ。宜しく頼むよ、頑張ってくれ給え」
 
 入院十日目。うつらうつらとまどろんでいた沢木の部屋を学生時代からの友人である柴田が面会に訪れた。
「つい先日逢ったばかりなのに、暇なのか?」
沢木は遠慮なく訊いた。
出版社の編集長たる者が、友人が入院したくらいで社を抜け出せるほど悠長ではないだろう、それとも、仕事が一段落したということか?
「うん?・・・ああ、いや、そうでもないんだが・・・」
「どうした?何か変だぞ、お前」
柴田が躊躇いがちに訊ねた。
「なぁ、焦りは無いのか?」
「焦り?」
「同期の奴に先を越されるとか、後から来た奴に追い抜かれるとか、さ」
「そりゃ、仕事のことが気にならないと言えば嘘になるわな。だが、気になって仕方が無いという程でもないんだな、これが」
無論、仕事のことを思い出さない訳は無く、頭の隅に引っ掛かってはいるけれども、沢木があれこれと思い悩む時間は、一日の内では斑で然も次第に少なくなっていた。沢木は、当初、挫折が徹底的に自分を苛み、地獄の底に突き落とすのではないかと思ったが、それ程のことは無かった。
 沢木は思う。
ひたすら会社の仕事をやり続けて来たけれども、それは他にやることややりたいことが無かったから、或いは、他人に負けるのが嫌だから懸命にやって来ただけのことかもしれない。ついこの間までは、これが天職と信じる振りをして来たが、子供の頃は好きな囲碁に夢中になりもし、基本的には勉強が出来る良い子になろうと努力したし、学生時代は優等生になろうと頑張りもした、仕事もその延長線上に在っただけのことだろう。入院という安息が曖昧なまま混沌としていた心の状態に一つの形を与えたように思われた。沢木は、焦りや苦しみや嫉妬が、或いは、諦めや哀しみや悩みが次第に現実感を失い、消滅してしまったように感じた。そして、自分はもう激しい何物かにぶつかって闘って行くことは出来なくなったのかもしれない、全てが心と身体の中で綺麗に濾過され通り過ぎて行ったのかもしれない、しみじみそう思った。
 
 翌日、心臓細胞の壊死率検査の結果を踏まえて、退院後の治療方針を担当医師から恵子と共に聞くことになった。栄養士の先生からも退院後の食生活についてアドバイスがあった。
「検査の結果を単刀直入に言いますとは、現在機能障害のある約十五%のうち、凡そ七%は壊死してしまっています。これはもう元には戻らないので、一生、心臓の機能が人より弱い状態で生活しなければならないことになります。残り八%については、時間をかけて治療をしていけば、機能が元に戻る可能性があります。全体的には、良い方向で改善していますから、人並みの生活は送れるでしょう」
心筋梗塞は、冠動脈が閉塞や狭窄などを起こして血液の流量が下がり、心筋が虚血状態になって壊死してしまう病気であるが、沢木の場合も、三本有る冠動脈の内の二本が狭窄を起こし、心臓の左下部分から壊死が始まっていたとのことだった。
 
 退院の日、恵子の運転する車は駅前の商店街を抜け、二人の家へと真直ぐに走った。
帰り着いた我が家は、十日程度の留守では何の変化も無く、出て行った時のままだった。まずは、これから二か月程度、自宅療養ということで沢木は家で過ごすことになっている。
退院後の生活は体調管理と体力回復を主眼に、食事と運動と睡眠が三大要素となった。全ては健康の為に・・・
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