第121話 土門英と沢明美

文字数 2,097文字

「俺は昔、フェザー級のボクサーだったんだ」 
それが土門英の触れ込み文句であった。夜になると彼はグランドキャバクラ「祇園」の用心棒の一人として店に詰めていた。彼の強さを知る者は一人も居なかったが、それはどうでも良いことであった。彼の顔には試合で負った傷を縫った跡が残っていたし、いつも踵でリズムをとるような歩き方をしていた。つまり、如何にもボクサーらしく見えた訳で、大抵の場合、「祇園」にとってはそれで十分だった。土門英は話し合い路線の熱心な信奉者だった。誰か揉め事を起こす奴が居ると、彼はそいつに近づいて行って精選した台詞を一言二言吐いては遠ざかって行った。従って、彼の手に生傷が在ったことは一度も無い。土門英はとても綺麗な手をしていた。又、土門英が花見小路のバー「レッド・ハート」でビール割りの焼酎を飲んで居ると、田舎の教会で紅茶を啜っている牧師を彷彿とさせるところが在った。クラブ歌手の沢明美が彼を愛したのもその故だったのかもしれない。 
 土門英がふらっと「レッド・ハート」に入って来てカウンターの止まり木に座る。そして、話し始めると沢明美が隣に移って耳を傾けた。明美は「祇園」で唄い終わると、いつも「レッド・ハート」にやって来て土門英が来るのを待っていた。
 彼の話の内容はいつも決まっていた。
東京で赤田毅というボクサーと試合をした時のこと、名古屋でタクシーの運転手を殴って留置場にぶち込まれたこと、大阪で職務質問をした警官と悶着を起こして逮捕されたこと、そして、瑠璃と言う美貌の女のこと。特に東京での赤田毅との一戦は彼に強い影響を残していた。否、彼のその後の人生を決定づけたと言っても過言ではないようだった。
赤田毅に完膚なきまでにノックアウトされた彼は二度とリングに上がれなくなってしまった。リングに上がれなくなったことで、土門英は何か掛け替えの無い大きなものを喪失した感覚に捉われた。何をしても虚ろで空しかった。明るく熱したあのボクシングの世界に在った緊張や燃焼、高揚や充実、光輝や陶酔など何処を探しても皆無だったし、何をしてもその意味を見出せなかった。土門英は自分と自分の人生を信じなくなった。
夜が更けてバーが立て込んで来ると、沢明美がサックスを取り出して、我が身に起きた悪運の数々をメロディに託して吹いた。
 
 明美は東京から横浜を経て神戸から京都にやって来た歌手だったが、彼女はカトリック教会の信者の一人でもあった。幼い頃に洗礼を受けたらしいが、何日、どうして、洗礼を受けたのかは定かではなかった。
明美はジャズを唄った。クラシックやポピュラーや歌謡曲では彼女の心は痺れなかったし、全身を激しく揺さぶられることも無かった。ジャズだけが彼女の心に響いたのだった。明美は痺れて震えた自分の心の思いを、否、心そのものを、聴く人々に届けたいと思った。それが聴く人たちを癒し救うのだと信じていた。カトリックの教理は良く解らなかったが「救済」や「救い」は理解出来ていると考えていた。
明美の声は擦れるようにハスキーだったが、よく伸びる良い声だった。だが、何処のステージでも求められたのはありきたりのムード歌謡だった。
「僅かのマニアしか知らないジャズなんか、うちの店には要らないよ!」
明美は心震えるジャズが唄える店を探して転々とした。ジャズを唄って痺れる心を届けることが聴く人への「救い」だとの彼女の思いは揺るがなかった。明美は何時しか東京から横浜へ、横浜から神戸へ、そして京都へと流れていた。気が付けば、波止場と礼拝堂と酒場とジャズが彼女の人生の必需品になっていた。かくして、明美が全身全霊で打ち込んで来たのは、ジャズを聴いてくれる人々の「救済」であった。そして、とりわけ、今は、自分も自分の人生も信じなくなっている土門英の救済が第一だった。
彼女は、或る晩、こう言った。
「こんな世の中なんか救いたくも何ともないけど、土門英だけでも救えればそれで良いのよ」
 
 それから暫くして土門英と沢明美は鴨川畔の安マンションの一室で一緒に棲み始めた。
時々、昼間に、「神」と「復活」について説いている明美と、上着のポケットに両手を突っ込んで黙々と聴いている土門英の姿が人々の眼についた。然し、彼等二人は昼間とはあまり縁の無い人間だった。街のネオンが灯る夕暮れになって、仕事を終えた人々が家路を急ぐ頃になると、大抵、通りを隔てた向い側の橋の袂に、店へ出る前の土門英と沢明美が立っていた。
 ところがある夜、土門英は「祇園」に現れなかった。次の夜にも、そのまた次の夜にも現れなかった。彼は一月経っても姿を現さなかった。土門英が用心棒稼業に見切りをつけたことは明らかだった。
「レッド・ハート」のカウンターの端に、明美がたった一人、しょんぼりした顔で座っていた。彼女は何杯かのグラスを傾けた後に言った。
「彼の身は神様が気遣ってくれる筈だから、それほど心配はしていないわよ」
だが、その口調は自信無げだった。それから彼女は静かにサックスを吹き始めた。まるで土門英の心をそれで度々癒したごとく、この世を癒そうとするかのように・・・
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