第127話 二人を結び付けたのは緑色の莢えんどうだった

文字数 2,177文字

「河本さん、此処、此処・・・」
克彦は昼食を摂りに入った蕎麦処で奥の席から声を掛けられた。店の中を見回した克彦の視線の先に、同僚の小川有希が手招いていた。彼女は二人用のテーブル席に腰掛けていて、彼女の前には誰も座って居なかった。
「ああ、助かった・・・掛けて良いかな?」
「ええ、どうぞ、どうぞ」
女性店員が直ぐに注文を聞きに来た。
「君はもう注文したのか?」
「ええ、つい先ほど」
程無く、有希が注文した天ざるが運ばれて来た。
「お先に失礼します」
彼女はそう言って、髪を耳の後ろに掻き上げ、軽く微笑んで、蕎麦を啜り始めた。克彦には何とも可愛い仕草に見えた。顔立ち自体が明るく可愛かった。ツンと上を向いたちんまりした鼻と悪戯っ子めいた丸い眼をしていた。有希は身のこなしも軽く、気さくな二十五歳だったが、彼女はその若さで既にバツイチだった。大学を出て直ぐに結婚したが、半年足らずで夫に死別したのである。彼女には、然し、新婚の夫に死に別れた暗さは、今はもう無かった。少なくとも、表面上は明るく振る舞っていた。そして、彼女は、大学を出たばかりの他の女子社員たちとは、やはり、違っていた。仕事はテキパキと熟してミスも無かったし、何事にも気を働かせて先に立って動いた。彼女に対する同僚や上司の信頼は厚かった。克彦もそんな有希を高く評価し何事につけて彼女を活用していた。有希は夫の四十九日法要を済ませた後、実家へ戻って其処からオフィスへ通っていたが、その実家は克彦のマンションからそう遠くはなかった。同じ私鉄沿線の二駅先に彼女の実家は在った。
 蕎麦屋で昼食を共にしてから、二人の距離は縮まった。そして、克彦と有希を結び付けたのは、捥ぎ立ての瑞々しい緑色の莢えんどうだった。彼女が、実家の裏庭の小さな菜園で採れた絹莢を克彦のマンションへ届けに来たのである。
 
 梅雨明け前の蒸し暑い七月の日暮れ時だった。
有希は額に汗を浮かべ、半袖シャツの胸を忙し気に波打たせていた。駅からマンションまでの途中で、急に稲妻が走り雷鳴が轟いて、彼女は息せき切らせて走って来たのだった。
「よっぽど引き返そうかと思ったんですけど、折角、捥いで来たものですから・・・」
有希が口早にそう言う内に又しても稲妻が光り、同時に雷鳴がゴロゴロと大きく響き渡った。有希は咄嗟に両掌で耳を抑え、目を瞑って顔を顰めた。克彦は彼女の肩を抱くようにしてマンションの室内に入れた。彼女をリビングのソファーに座らせたとき、二度、三度と稲妻と雷鳴が光り轟いて、有希は眼を閉じ、耳を覆って、そのまま克彦の胸に凭れ込んだ。彼は、一瞬、たじろいだが、今にも泣き出しそうな有希の顔を見ると、抱き寄せずにはいられなかった。
ゲリラのような激しい驟雨と轟く雷鳴が止んだ時、二人の行為も終わっていた。
 
 半年余りが過ぎた早春三月の中半、克彦に福岡支店勤務の内示が在った。
彼は直ぐに有希に事の次第を話して福岡への同行を求めた。
「僕と結婚して福岡へ一緒に行って欲しい」
だが、克彦の思いに反して有希は返事を躊躇った。
「お話は嬉しいけど・・・暫く考えさせて」
「僕は君を心から愛しているし、君も僕を愛してくれている。何を今更、考えようって言うんだ?」
「私にだって、色々考えたり、整理しなければならないことは有るわ。ねえ、お願い、少し時間を頂戴・・・」
有希が哀願するように言った。
克彦は三月末の寒い午後に、独り羽田を飛び立って行った。

 二年前の早朝、有希は出張する夫の毅をマンションの玄関先まで送って出た。未だ夜が明け切っておらず、辺りは薄暗かった。
「行ってらっしゃい。気を付けてね」
だが、一時間後、毅は、突然、呆気無く、交通事故で亡くなった。居眠り運転をした大型トラックに追突され、高速道の中央分離帯まで跳ね飛ばされて胸と頭を強く打ち、殆ど即死の状態でこの世を去った。トラックにブレーキを踏んだ形跡は全くなかった。
 有希は幸せの絶頂から奈落の底へ突き落とされた。それからというもの、毎日毎日、来る日も来る日も、心も身体も抜け殻の状態で日々を過ごした。最愛の人を突然失った喪失感と寂寥感から哀しみに打ち拉がれ、何をする気にもなれず、何をしても心は晴れなかった。
 毅の忌明け法要が済んだ或る日、婚家の義父が有希に実家へ戻ることを勧めた。
「未だ未だ若い君を、此の侭、この家に縛り付けて置く訳にはいかない。哀しみは大きく直ぐには癒えないだろうが、籍を抜いて旧姓に戻り、これからの人生をやり直して欲しい」
 それから一月後、有希は実家に帰り、旧姓に戻って、仕事に復帰した。
同僚たちは、当初、腫れ物に触るような態で彼女に接したが、健気に振舞う有希の姿を見て、次第に優しく労わり、何かと気を使って励ますようになって行った。そんな上司や仲間に囲まれて、有希は仕事をしている間は気が紛れて救われた。彼女は夫を亡くした哀しみと孤独の寂しさに耐えながら時を過ごしたが、二年という時間の経過が、漸く、彼女に平常の心持をもたらした。そして今、克彦の愛に出逢ったことで、彼女は前を向いて生きる勇気と決意を抱き得るようになった。
 だが、克彦と愛し合って既に半年余りの時間を経たとは言え、結婚する、となると、有希の心は惑った。直ぐに、「良いわ、解ったわ」と言うには何かが彼女の胸の片隅に引っ掛った。
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