第119話 麗子、同期生の親しい友人佐々木に相談を持ちかけるようになった 

文字数 1,778文字

 嶋のカナダでのビジネスマンとしての仕事は生易しいものではなかった、激烈を極めた。
カナダの経済はアメリカに輸出の八割、輸入の六割を依存して順調に安定的に成長していたので、日本の大手企業はそのアメリカ依存の切り崩しと自国の貿易拡大の為に競ってカナダへ進出して凌ぎを削っていた。自動車とその部品や機械・機器を輸出し、木材や豚肉、パルプ、菜種、非鉄金属、石炭等を輸入するのが主な日加貿易であった。
 嶋は日本へ送る木材の買い付けを担当させられたが、それは大変の極みであった。カナダの国土は世界第二位、日本の二十七倍である。十以上ある州の森林地帯まで奥深く分け入らなければ、安価で良質の木材を調達することは出来なかった。しかも著名な大企業がしのぎを削る中での戦いであった。絶対に勝たなければならないし、勝つことが至上命令であった。遠く離れた異国の土地で、見知らぬ同僚に取り囲まれた新入りの嶋にとって、麗子の不在は大きな喪失の痛手となって胸を締め付け、嶋は孤独感と寂寥感に苛まれた。だが、仕事とノルマに追われる毎日の中で、否応無しに企業戦士としての生活に埋没して行かざるを得なかったし、当然の如く、仕事の成果が目標通りに上がらなければ日本への帰任の道も開かれはしなかった。 
 
 麗子は嶋からの音信が途切れ、途絶えていくに連れて、次第に耐え難い不安を覚えるようになった。便りの無い不安、二人の愛への不安、そして、胸締め付ける寂しさと孤独感。嶋がカナダへ単身赴任すると決まった時から既に解ってもいたし覚悟もしていたことではあっても、何かに縋らなければやりきれない気持に駆り立てられた。
麗子は次第に同期生で親しい友人でもある人事部の佐々木に相談を持ちかけるようになった。佐々木はいつも気軽に相談に乗って慰めても励ましてもくれた。
 
 佐々木と嶋ではまるで違っていた。嶋は時折、尖がったり角ばったりしたところをシャープに覗かせたが、佐々木にはそれは殆ど無いに等しかった。彼には円やかさと穏やかさが顕著だった。佐々木の話し振りは飾り気が無く率直で謙虚であったし、自分をひけらかすことも無かった。その態度はもの静かで口数も少なく、麗子の話に誠実に耳を傾け包み込むような包容力を感じさせた。そして、佐々木の持っている、何事からも逃げない、難題にも冷静に対峙していく芯の強さと、少々のことは飲み込んでしまう寛容さと優しさに、その懐の深さに、次第に信頼を寄せるようになった。
 麗子は佐々木と居ると気持ちが和んで楽だった。嶋と居る時に感じた背伸びするような、気負い立つような、気詰まるような張り詰めた感情が、佐々木との間には無かった。佐々木は優しく柔らかく円やかで、刺々しさなどまるで感じさせなかった。麗子は胸の中にぽうっと灯が燈るような温かさを感じた。
やがて、ティールームでコーヒーを啜り合う二人の姿やレストランで微笑み合ってディナーを摂る姿、バーの止まり木やクラブのカウンターに並んで座っている姿やコンサートへ腕を組んで出かける姿が見かけられるようになった。二人は次第に友人としての垣根を越えて行くようだった。
 
 嶋がカナダに赴任してから二年の歳月が流れた。
晩秋の寒い日だった。一通の国際郵便が嶋の元へ届いた。それは麗子と佐々木が結婚したことを知らせる内容だった。嶋の心の在り様は平静を欠いた。麗子への思いがどっと胸に蘇えって、それが溢れるほどに膨れ上がった。麗子の不在の大きさを今更ながらに思い知って、嶋は喪失感に打ちひしがれた。取り返しのつかない人生の大事なものを一つ失った気がした。
麗子を失った嶋を襲ったのは喪失感と寂寥感だった。オフィスに出勤して仕事をしている間は気が紛れたが、夜、マンションの部屋に帰ると、嘗て愛し合い語らい合った麗子の笑顔が目に浮かび夢にまで現れて碌に眠れなかった。酒に紛らわそうとしても飲む気にもなれなかった。が、それでも仕事にだけは己に鞭打って必死に取り組んだ。そうしなければ成果も実績も積み上げることは出来なかった。そう、実績はビジネスマンの実力と信頼のバロメーターだったのである。
 そうして、半年後、嶋にニューヨークへの転勤命令が発せられた。
心の傷は未だ癒えてはいなかったが、嶋は自分の心を捻じ伏せるように踏ん切りをつけて次の赴任地へ旅立って行った。
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