第73話 その頃、龍二には惚れた女性が居た 

文字数 2,882文字

 田沼龍二は両親の顔を知らない孤児だった。
清水寺の奥に在る湧水寺の一房で事務総長の手によって育てられた。龍二の隣の部屋には三つ歳上の兄が住まっていたが、彼の姓は龍二とは違っていた。龍二は、兄が何処の誰なのか、何も知らなかったし知ろうともしなかった。それらは全て暗黙の了解のようなものであった。母親の居ない寺の一房で龍二は物心ついた時から修行僧と同じような暮らしをして育った。寺には寺務員と呼ばれる女性がいたが、彼女たちは参詣者や拝観者などに対応する謂わば表向きの仕事を担っていたので、修行や生活などと言った裏の面には一切関わらなかった。龍二は幼い頃から優しい女手とは無縁に育った。
 龍二は小学校に上がった時、自分が孤児であることをはっきりと認識した。提出書類の親の欄に書かれた姓も家族の欄に書かれた兄の姓も自分のそれとは違っていた。母親の欄にはその姓さえも無かった。
「僕にはお母さんは居ないの?」
「他所の子は本人も両親も同じ姓名なのに、何故、僕だけ姓が違うの?」
龍二は養父に頻りに訊ねたが、はっきりした答は返って来なかった。明確な返答が無いと言うことは、見えない処に何かの秘め事が有るのだろう、と幼い龍二にも察しはついた。それから龍二はそのことに触れなくなったし、考えもしなくなった。
 生まれ育って来たこれまでの境遇から龍二が身に着けたモラルは至って単純シンプルだった。他人を宛てにせず、他人に頼らず、期待もせず・・・そして、未来にも人生にも期待せず、宛てにもせず・・・龍二は愛や夢や、絆や連帯や信念などを信じたり疑ったりすることは無かった。彼はそれらにまるで関心が無かった。そんなものが何になる?・・・
それは、本人が意識していようと居なかろうと、将に虚無と刹那の倫理だった。彼は大学時代の四年間は人生の執行猶予期間だと思っていた。卒業した後に何になりたいとか何をしたいとか、そういうことは考えさえもしなかった。龍二はその日その日をただ流されて刹那的に生きた。大学を卒業して今の大手企業に勤め、早や四年が流れ過ぎた。龍二は敵を作らなかった。敵を作らないことは龍二がその生い立ちから自然に身に着けた処世術であった。
 
 その頃、龍二には惚れた女性が居た。
同じ会社の人事課に居る中崎郁子だった。郁子は飛切りの美形だった。背中まで垂れた長い栗色の髪、良く動く大きな黒い瞳、ツンと先の尖った鼻、心持ち捲れ上がった唇、身体全体から匂うような色香が漂っている二十四歳だった。ミニの裾からすらりと伸びた足は艶やかで、将に男泣かせの玉の肌だった。然し、郁子は冷たく冴えわたるような美貌ではなかった。愛くるしさの残る可憐な華の趣が在った。
龍二は営業マンである。仕事のことで郁子と話す機会は滅多に無かったが、ワンフロア―の広いオフィスの通路や出入口で顔を合わせることは偶には有った。一礼して行き交う郁子を見返りながら、龍二はいつも、良い女だなあ、とつくづく思うのだった。郁子が人事課に配属されて本社事務所に姿を現した時から龍二は彼女に一目惚れしていた。
或る日、来客との商談が遅れて居残り仕事になった龍二が、湯沸かし場へ飲み終えたコーヒーカップを洗いに行くと、其処に郁子が居た。
「あっ、田沼さん。カップは其処に置いておいて下さい。私が一緒に洗いますから」
「そう?じゃ、頼む、ね」
「はい、解りました」
「然し、君も遅くまで大変だね、未だ終わらないの?」
「いえ、これを洗ったらもう帰りますから」
「そうか、僕ももう直ぐ終わるんだけど、良かったらそこら辺まで一緒に帰らないか?」
郁子は、一瞬躊躇いはしたものの、はい、解りました、と答えた。
「じゃ、君がオフィスを出たら直ぐに僕が後を追うから、正面玄関を出た辺りで落ち合うことにしよう」
龍二の胸は躍っていた。憧れの郁子と初めて二人で話が出来ることに顔が自ずとほころんだ。超高層の会社ビルを出ると龍二は直ぐに郁子に追いついて肩を並べた。話す間も無く、会社前のバス停にバスが到着して二人は慌てて乗り込んだ。
 四条大橋を渡って川端通りの東詰めで停車したバス停で、龍二に別れの挨拶をした郁子が降車すると、彼女に続いて龍二も降り立った。
龍二が郁子を誘った。
「この先に有名な老舗のレストランが在るんだけど、ディナーでも一緒に食べない?どうせマンションへ帰っても、お互いに一人で晩飯を食べるだけだ。一緒に食べようよ、ね」
 龍二が郁子を案内したのは四条大橋のたもと、鴨川の直ぐ傍に在る高層の洋食レストランだった。レストランは比較的空いていた。二人はウエイトレスに導かれて四条通りに面した窓際の席に着いた。二階から見渡す夜景は、月に照らされた東山連峰を背に、歓楽街の輝く灯が煌々と空に映えて煌びやかだった。店内は古都の風情とヨーロピアンフォルム、老舗ならではのモダンでハイカラな情緒あふれる空間だった。
龍二が選んだメニューはリーズナブルな定番と呼ばれる「祇園ディナー」だった。
美味な料理と芳醇なワインで次第に心を解いた二人は、仕事のことや会社のこと、上司のことや同僚のことなどを打ち解けた寛いだ言葉で話し合った。
店を出た後、龍二が言った。
「送って行くよ」
「良いですよ。すぐ近くですから」
「そうか。それじゃ、此処で」
 龍二は八坂神社に連なる東方向へ向かい、郁子は龍二に背を向けて四条大橋へ歩を進めた。少し歩いて龍司が振り返ると、丁度、郁子が川端通りを曲がって北へ消えるところだった。煌々と灯の輝く歓楽街の四条通りには夥しい人と車の群が行き交っていた。龍二はアーケードの下を、人を縫うようにして急ぎ足に歩いた。
 龍二の胸には郁子への渇望が渦を巻いて拡がっていた。何としても手に入れたい、俺のものにしたい、龍二の心は激しくそう欲した。これまで幾多の女性を見て来たが、自分のものにしたいとまで欲望した相手はいなかった。郁子への執着心がむくむくと湧き上がって来た。龍二は郁子への思いを胸に滾らせて宿坊へと急いだ。
 翌日から二人は同じ時刻のバスに乗り合わせて通勤し、朝の会話を繰り返して親密の度を深めて行った。やがて、二人は、お茶を喫んだり、食事をしたり、お酒を飲んだり、
ダンスをしたりして、通勤バス以外のところで逢うようになった。
 
 クリスマスイブの夜、郁子のマンション前でタクシーを乗り捨てた龍二は、いきなり彼女を抱き寄せて唇を重ねた。離れようともがく郁子を更に強く抱き締め、熱く唇を押し付けた。やがて、郁子も身体から力を抜いて、ぶら下がるように龍二の首に両腕を巻き付け、龍二の唇に呼応した。熱い口づけを続け乍ら龍二は郁子の乳房に手を宛てて揉みしだき、それから、ミニスカートの裾を捲ってパンティーの下へ手を滑り込ませた。龍二の指を抑えて、喘ぎながら郁子が叫んだ。
「駄目!こんな所じゃ嫌よ!私の部屋へ上がって!」
それから郁子と龍二は頻繁に肉体を重ね合った。龍二は湧水寺の宿坊を出て清水道の端にマンションを借り、二人の密会の場所を作ったし、郁子は週末になるとせっせと其処へ通った。 
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