第103話 そうだ、俺にも色彩が必要だ

文字数 2,477文字

 日高達夫が地下鉄渋谷駅の階段を上がって道玄坂通りに歩を踏み出すと、陰気な小雨が止むことなく降っていた。日高は買物が嫌いだった。品物を選ばなければならないのが嫌だった。金やクレジットカードをやり取りするのが面倒だったし、店員の慇懃な態度も嫌だった。彼は大きな総合書店のショウ・ウインドウを覗き込んだ。
と、偶然、地下鉄の階段を上がって来た彼女の姿が眼に入った。
 鳩尾の辺りで何かが疼いた。同時に、恋の終わりの惨めさを噛み締めていた夜の記憶が甦った。あの夜、日高は、雪の降り頻る街を、肩を窄めて彷徨ったのだった。
 今、彼女は赤い傘を少し上に傾げて歩いて来る。久方振りに見る彼女の顔は肉がついてやや丸味を帯びているし、眼尻にも小さな皺が見て取れるようである。が、歩き方は以前と変わらなかった。多くの長身の女性と同じように、僅かに上体を前に傾げた独特の姿勢である。頭にはスカーフを巻き、昔と同じように、何か考え事に耽って居るかのような真面目な表情を浮かべて、雨を避けつつ店舗の軒の下を歩きながら、彼女は真直ぐに日高の方へ向かって来た。
「奈津美・・・」
静かに声をかけると、彼女は顔を上げて此方を見た。不審そうに目を細く眇めている。細長い瓜実顔・・・。
ジーパンを履いていなくても、Tシャツを着ていなくても、彼女には俺と判るだろうか、と日高は思った。
暫しの後、彼女の眼がぱっと輝いた。
「日高さん!」
「やあ、久し振りだな」
嬉しさと同時に、何となく子供に還ったような気恥しさを、彼は覚えた。
「驚いたわ、達夫さんじゃないの。こんな所で何をしているの?」
「百貨店に行くところなんだ、家具を買いにね。今度、この近くにマンションを借りたものだから」
「まあ、良いわね。あなたが成功して独立したって話は、私も風の便りに聞いていたわ」
「なぁに、所詮、仕事は仕事さ。他の仕事と変わりが有る訳じゃない・・・君はこれから何処へ?」
「子供服の専門店へ行くところなの。うちの子の洋服を買いに、ね」
「じゃ、コーヒーでも一杯付き合わないか?」
一瞬、彼女は躊躇って、思案顔をした。が、直ぐに応諾の返事をした。
「ええ、良いわ」
 日高は奈津美の右側に立ち、彼女から折り畳みの小さな傘を受け取って雨の中に踏み出した。確かこの通りを曲がった処にコーヒー・ショップが在った筈だ、其処へ向かうことにした。
奈津美が緊張して躰を縮み込ませている気配が感じとれる。彼はなるべく身体が触れないように注意した。
彼女は俺と同じ歳だから、今、三十六歳になっている筈だな、と日高は思った。最後に逢ったのは、お互いが二十四歳の時だった。ということは、これまで過ごして来た人生の、丁度、三分の一を隔てて再会したことになる。
「君は今、何処に住んでいるんだい?」
「世田谷の等々力よ。五年前に其処に家を買ったの。今じゃ三人の子供の母親なのよ、わたし」
「男の子?それとも女の子?」
「全部女なの」
奈津美が恥ずかしそうに笑った。
「一番下が未だ七カ月でね。で、あなたの方は?」
「男の子と女の子、一人ずつだ」
「じゃあ、奥さん、きっと満足でしょうね、両方のお子さんで」
「女房とは別れたんだ」
「まあ!」
彼女は傘の下から日高を見上げた。
「ごめんなさい、わたし、知らなかったものだから」
二人は黙って次の通りの角を曲がった。五、六軒先に、目指す店の看板が眼に入ったので、彼は奈津美と一緒に少し歩調を速めて足を進めた。
 
 そのコーヒー・ショップは洒落た店だった。
中央に二階へ続く螺旋状の階段が有り、壁もテーブルもカウンターもシックな木彫のデザインで、静かなクラシックの楽曲が流れていた。時刻は午後四時を少し過ぎたところで、客は疎らだった。
コーヒーを二つとイングリッシュ・マフィンを二つ頼んでから、日高は訊ねた。
「で、石橋君は元気にしているのか?」
「石橋君?」
彼女は戸惑いの色を浮かべて、弄るように日高の顔を見返した。
「ああ、石橋真司君のことね。さあ、どうして居るのかしら、知らないわ、わたし・・・」
「じゃ、君は彼と結婚したんじゃなかったのか?」
「えっ?・・・当り前じゃないの。嫌ね・・・」
奈津美は笑い出した。
「彼とはあれっ切り逢ってないわよ、あなたが私の前から消えてしまった時以来、一度も」
日高の鳩尾の辺りで又しても何かが疼いた。
「あの頃、私とあなたの仲が上手く行っていないんじゃないか、とあの人は色々と心配してくれていたのよ。私はもっともっと絵を描き続けたかったし、画家になる夢も捨て切れずにいたし・・・あなたは絵を続けるかイラストや組絵の方に転身するかで迷って悩んでいたし・・・」
「・・・・・」
「あなたが私の前から去って以来、あの人とは会っていないわ、会う必要も無くなってしまったし、ね」
あの深夜、日高は、道端に停めた車の中で石橋と並んで座っている奈津美を目撃し、傷心、嫉妬、ある種の崩壊感などが渾然となって沈殿した心を抱えて、寒い雪の街を欝々と彷徨い、彼女の前から消えたのだった。
「わたし、そろそろ行かなければ」
奈津美が静かに言った。
「こうして、思いがけずお会い出来て、とても嬉しかったわ。わたしね、あなたはきっといつか名を上げるに違いないと、ずうっと思っていたのよ」
日高はおずおずと笑った。
「あのぉ、君。出来たらこれからも時々逢えないだろうか、何処かで一盃飲むとかして、さ」
言った途端、彼は後悔していた。
彼女の顔は無表情になり、それから、眼を細く眇めて言った。
「日高さん、わたしには夫も居るし子供も居るの。わたしは一家の主婦の身なのよ」
「あぁ、そうだね、そうだったね。済まなかった、ごめん!」
奈津美は微笑して立ち上がり、戸口に歩み寄って忽ち人混みの中へ呑み込まれて行った。
 日高は長い時間をかけてコーヒーを啜りながら座っていた。
ふと眼を上げた視線の先に、フラワー・ショップの店員が、花が雨に濡れないように店の中へ運び入れているのが見えた。前面には一番背の低い明るい色の花を置くようだった。
そうだ、俺にも色彩が必要だ!緑の森、オレンジ色の海、紺碧の空・・・
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